文化講演会
 大野に関わりのある異能の画家
小山内 龍
講 師: 近江 幸雄氏
大野との関わりと『昆虫放談』
 小山内龍の研究が函館や大野の人たちに知れ渡り受賞(神山茂賞)の要因になったのは望外の幸せです。
 龍と大野との関わりといいますと、やっぱり疎開して山野を駆け巡り昆虫を採取して本に著しています、それは『昆虫放談』(初版昭和15年(1940)で版を重ね表紙三種類、戦前に継いで戦後築地書館から二種類も出て、『昆虫日記』の題名でも出て全部で四種類にもなります。
 絵本やまんがの分野からでなく昆虫から小山内を研究している人もいます。以前市民会館で昆虫の方から採って研究する集まりがありました。前にここに公民館での展示会・解説で理科の先生で同級生の猪子君が研究者で見えていました。私は本の方から研究に入ったものですから残念ながら昆虫の話は出来ませんでした。
 『昆虫放談』は楽しく読みやすく書かれていますね。大野の山野のことや蝶々を採取したことなど書かれています。『昆虫放談』はあの有名な手塚治虫や北杜夫も影響を受けましたと本に書かれています。
 『昆虫放談』は手に入れることができます。千円なにがしかで築地書館から買えると思います。古本屋でも出ています。読むと山野に行ったり採集してみたい気持ちになりますね。まあ、非常に名作って言われているんです。
龍の繋がりと『絵本の世界110人のイラストレーター』
 私がなぜ小山内龍の名前を知り飛び込んだかというと、私の先輩で函工出身で、函館病院の技師をやっていた佐藤定一さんは漫画家で新聞の「巴」や広報誌に書いたり、中村純三さんの江差の繁次郎にも書いていました。
 佐藤定一さん、ペンネーム邦かめすけさんと飲んだ時、「近江さん、彼(小山内龍)の絵、遺作展開きたいんだよな、その時協力してくれよな」、といわれたんです。それが頭にこびり付いていて、資料にあるように『絵本の世界110人のイラストレーター』(昭和59年(1984))に110人のなかに日本人として18人のなかに龍の絵が入っているのを、偶然発見したんです。函館で育ち大野で亡くなった小山内龍という人物がわかって郷土史をやっている人間として放って置くわけにいかない。それじゃというわけで研究に入り込んだわけです。
 それでマンガとか絵本の資料を探し出すのは非常に大変なことなんです。従って子どもの本は投げ捨て、読み捨てで大事にする事はちょっと考えられない。古本屋にあることはあるが極めて少ない。ということは凄く(値段が)高いということで、児童の研究家とかが一生懸命集めている訳ですから、私の知っている例えば北星学園大学の谷暎子先生は児童文学の研究者で.アメリカの図書館へ行って調べるくらいで、戦後児童文学の本もアメリカ占領軍に接収されている訳ですからわざわざ行くんですね、この人も小山内龍の本を集めているのですから古本屋で競合したんじゃないかと思うんです。高くてなかなか買えない、資料を集めるのに大変で金もかかりました。
資料集めに奔走
 私が資料を集められた理由は、水道局の東川町に勤めて頃、裏に古本の古紙回収の紙問屋があって、昼休みにいつも行って先回りして探り当てかき回してたので、手つけられない奴だと初め社長は怒っていたが、適当に集めてそこの秤の所に置いて、半値でいいからと「免許?」与えられて、呆られながらも便宜を図ってもらいました。
 ドツクや商工会議所、図書館の廃棄物などを自動車はなく自転車に大きい荷台を作り集めていました。10年間かけ小屋を建て古本屋でもやろうかと思っていましたが、サッポロ堂の石原さんが、本好きの近江さんが古本屋やっても商売にならないよ、大体好きな本売れないだろうから諦めて止めた方がいいと言われました。
 本の中には二万円とか何万円とか、『アサヒグラフ』でも五千円とか、それで研究の土台ができたな、という感じでした。
 彼の書いた『黒い貨物船』(昭和17年・1942)には函館の北洋漁業全盛の華やかな様子がわかるので、自伝的で名作でもありなかなか手に入らないで国立国会図書館にコピー願を出したのです。カメラで撮ってコピーして読むことができました。お金も結構かかりました。退職の時、本気違いで集書家の同僚から『黒い貨物船』をお祝いに貰いました。多分彼の奥さんは、郵便局の中村さんの閏係の人だと思います。そういう経緯もあるわけです。
生い立ち・・・思想
 小山内龍は大縄町に住んでいて若松小学校に入って絵が好きで描いていました。古い名簿を調べると同級生ではセメント問屋の石橋常四郎や水道局の先輩で岩清水昌吉郎がいて卒業してるんです。職業は下駄屋に勤めていて、いわゆる丁稚奉公ですね。工員をしたり、船員になります。
 小山内龍がなぜ函館を離れたか、この人の思想は左翼系のいわゆるアナーキストで、黒色青年同盟に入って活動していて、家族や親戚などに迷惑がかかるということで上京したという状況があるわけです。当時の特別高等警察(特高)のブラックリストに載って、サッポロ堂書店の石原さんから函館の関係者のコピーを送ってくれたんです。
 「沢田鉄三郎(龍の本名) 無政府主義 丈五尺三寸位 中肉 角顔 頭髪長 その他特徴ドモリ(ここまで書いて)、(最近の活動は)主義宣伝二奔走ス 本籍住所 変名ドモ鉄 画工」とあだ名まで付いている。何月何日頃東京に出て行った。と特高は詳しく書いていて、函館でも10人くらい市役所の職員や新聞関係者、北大の高倉新一郎先生も載っていて当時の自由主義者的な人も入っている。そういう思想の流れもあるので、龍の日記を読みますと、全国の選挙の結果何々党は少なかったけれど、これから多くなっていくのではと希望的観測もし、思想は抜けないものだなとしみじみ思いました,
懸賞マンガに入選
 東京へ出て色々な仕事、水道工事、土工夫とか、奥さんになった家に下宿してたんです。昭和6年(1931)、「アサヒグラフ」の懸賞マンガに投稿し「蜻蛉に罪あり」が入選したのです、伊藤部長さんの目に留まり専属となって始終出るわけです。朝日新聞に知り合いがあって全部コピーして、こんなに(掲げ)あるんです。
 生活は漫画家として安定します。横山隆一とか近藤日出造とかの新漫画集団のグループに入ります。「新イソップ物語」では横山隆一原作、小山内龍が描いています。このようにペン宇みたいに描いたり、ユーモアたっぷりに動画風に描いたりで作風は各種各様に描いて天才的な画家でした。
絵本作家として「児童文学賞」
 私は和光デパートに古本屋があったんで、そこに「新イソップ物語」の新聞の切り抜きを張ったのを手に入れたんです。偶然というか運命というか、探ってめくってみたら子どもさんが大切に張ってあって名前がシバタクミコさんといい昭和九年頃、七、八歳で、今生きていたら見せてやりたいです。国鉄の書類に張ってあるので親御さんか兄弟が国鉄マンではないかと思います。
 龍はマンガの道で大成するわけです。マンガだけに収まらなくて、童話作家と親しくなり、百田宗治、平塚武二等専属の絵描きさんみたくなっちゃうんです。装丁、表紙、挿絵だとか描き、佐藤春夫の「西遊記」の挿絵がそうです。色んな種類の絵を描けるんですね。漫画家で評価するのでなく、絵本、挿絵、装丁、その他文章も多く、たくさん絵本書いていて昭和16年(1941)児童文学賞を貰っているんです。こういう人物だということを知ってほしいんです。文章も「術」という初恋談義を書いていて楽しくて面白い文章ですね。
 大野の奥さん、沢田昌さんの所へ自転車で、風の強い日は大変でしたが三回ほど来ています。お話を聞くことができました。当時は思想をもつ、特高に目を付けられるのが悪人と見られてという時代でしたから、家族にも影響あったと思います。一度は赤井さんの家へも連れてって貰いました。龍の本を所蔵していましたし話を聞くこともできました。
無念の最期
 龍は「終戦日記」を書いていますが、戦争中の大野での食べ物のこと、買えなくて大変だったこと等、実生活を記しています。
 サッポロ堂さんが私の『小山内龍〜北の絵本作家〜』を「日本古書通信」へ寄贈したんですね。そうしたら編集長から日記を是非読んでみたい、と話がありました。刊行させたいと子息の洋太郎さんに連絡したら、掴人のことだからと断られ、数年後再度お願いしたらOKが出ました。日記の刊行を実現したいですね。
 龍の最期は持病の心臓病が悪化して、昭和21年(1946)12月、二人の子どもを残し「残念、残念」と言い残し亡くなりました。デビユーしてから十二、三年で沢山仕事をしていますから、もっともっと才能を活かし活躍してほしかったと残念でなりません。
◇川崎市の志村さん見える◇
 2005年、「ガリ版文化を歩く」を書き、「綴り方教室」を調べている川崎市の志村章子さんが、大野の綴り方や龍が機縁で、自分の父親が雑誌の編集長をやっていたので自宅に龍の画稿がありコピーが届けられました。「フシギナモノ」と直ぐ分りました。翌年、志村さんは龍や綴り方などの調査に見え、郷土資料館で文保研会員とで懇談会を開きました。お父さんを汽車の事故で昭和21年に亡くした方ですが「漫画集団」とも交遊があって親しかったのです。龍が高額の百円、と香典帳に載っていて家族への思いやりが伺えます。
 今日は短い時間でしたが小山内龍の活動の概要を述べました。ご清聴有難うございました。
(拍手)
平成22年2月25日 北斗市公民館にて
主催:大野文化財保護研究会

■講師  近江 幸雄氏 (北海道史研究会渡島地区幹事  函館市在住)
1936年生まれ 元函館市職員
「小山内龍 −北の絵本作家ー」著
「箱館戦争銘々伝」編集
「北海道の不思議事典」共著
北海道新聞・函館新聞に”道南の歴史”連載
平成20年11月 郷土史研究功労者に贈られる「神山(こうやま)茂賞」を受賞
小山内龍を研究する第一人者