
はるかむかし、旧石器時代・縄文時代から現代に至るまで、一万有余年の間ここ北斗の地で営まれ続けた人類の歩み―当コーナーでは、こうした北斗の歴史について、「遺跡」に焦点をあてて紹介します。第5回となる今回は、縄文時代以降に北海道島で展開した「北の文化」のスタートである続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)と、その時代の遺跡である茂別(もべつ)遺跡について紹介します。
約1万6千5百年前にはじまり、以降1万年以上の長きにわたって日本列島で営まれ、そのくらし・文化のいしずえとなった縄文文化。それが終わりを迎え、次なる文化への歩みをはじめたのは約2千4百年前と考えられています。
縄文時代の後半ごろから日本列島に持ち込まれたコメは、やがてコメ作り=稲作とそれに伴うライフサイクルや富の蓄積といった、人びとの生活や社会のありさま、さらには物事の価値観などにまで大きな影響・変化をもたらしていきます。弥生時代のはじまりです。
コメ作り(水田稲作)は本州以南の全域に広まりました。その範囲は現在の青森県まで達し、弘前市に所在する砂沢(すなざわ)遺跡からは日本最北端となる弥生時代の水田遺構(すいでんいこう)が見つかっています。
しかし、津軽海峡を越えた北海道島では、気候帯(きこうたい)や風土の違いもあり水田稲作は根づかなかったようです。北海道においてコメづくりがはじまるのは弥生時代のはじまりから約2千年あと、今から170年ほど前まで待たねばなりません。
おそらく、当時の北海道島に住む人びとにとっては、当時困難かつ不安定なコメづくりにたよるより、長く北の自然とともに生き、その中で育んできた縄文時代以来のライフスタイルを受け継ぎ磨き上げるほうがより良かったのでしょう。ここに、後のアイヌ文化へとつながる北海道島独自の「北の文化」が芽生えます。
こうして、かつて日本列島で広くつながりや共通性を見せながら育まれてきた文化は、縄文時代の終わりを境に津軽海峡を挟んだ北と南でその向かう方向をたがえていくのです。この「北の文化」の始まりの時代を「続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)」、その文化を「続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)」と呼びます。
続縄文時代直前・縄文時代晩期のころ、津軽海峡をはさんだ道南から東北にかけて「大洞(おおぼら)式土器」という精緻な縄文土器をつくる文化が広がっていました。
東北地方北端の弥生土器、そして道南の続縄文土器はこの大洞式土器の特徴を受け継ぎ、薄く、くびれのメリハリの強い器形と、水平に平行する沈線(ちんせん)(棒などで引いた線)文と縄を斜めに転がして施す縦方向に流れる縄文からなる文様という共通したありさまを見せます(図1)。

片や水田による稲作を行う弥生文化、片や狩猟・漁撈(ぎょろう)による生業を営む続縄文文化とその生活の基盤は異なるものでしたが、こうした土器に見られる共通性は、文化の分かれ道にありながら、その当初はなお津軽海峡をはさんで密な人々の交流があったことをうかがわせます。
北海道でこれらの続縄文時代の土器とそれを使う人びとの文化が初めてとらえられたのが尻岸内(しりきしない)村(現・函館市恵山地域)恵山(えさん)貝塚でした。そのため、これら道南の続縄文文化初期の文化を恵山文化、使われた土器を恵山式土器と呼びます。
恵山文化の遺跡は、多くが海岸沿いの砂丘あるいは段丘の上に集落を構え、漁撈に係わる資料が見つかる例が多いようです。また、多種多様な土器たちや骨角(こっかく)製品、コハクやヒスイなどを加工した玉など、縄文時代晩期の様相を受け継ぎながら次なる文化の開花を感じさせる様々な文物もその特徴といえるでしょう。
津軽海峡沿岸で現在唯一の大規模な発掘調査が行われた恵山文化の集落遺跡が北斗市の南西にあります。茂別(もべつ)遺跡です。
かつて国道228号線(海岸道路)を通り茂辺地(もへじ)川を渡る手前には、細く段丘が岬として突き出しており、その上に茂別遺跡がありました。

茂辺地川に沿い海岸に突き出したこの岬は見晴らしもよく、海を往くむかしの人びとにとって重要な土地だったのでしょう。発掘調査によって見つかった遺物・遺構は続縄文時代(恵山文化)のものだけではなく、古くは縄文時代早期前半(約8000年前)から縄文時代後期初頭(約4000年前)の遺構・遺物も見つかっており、古い時代から長く利用された場所であったことがわかります。
しかし、昭和28(1953)年の国道228号制定に伴い岬にトンネルが通され、交通量や防災への配慮から岬自体を削る必要性が出て来たため、それによって失われる遺跡のすがたを記録するために平成3〜9年まで発掘調査が行われたのち、工事により姿を消しました。
現在は海岸の形にわずかにおもかげが残るのみとなっていますが、先に述べたとおり茂別遺跡は津軽海峡沿岸の同時代遺跡では唯一といってよい大規模発掘調査が行われた遺跡であり、それによって得られた当時の人びとのくらしに係わる情報や記録は、極めて高い学術的・歴史的な価値をもつものと言えます。
それでは、茂別遺跡で見つかった恵山文化のすがたについてご紹介していきたいと思います。まずは土器です(図3)。

恵山文化の土器はおおまかに前半と後半に分けられます。前半の土器は同じ時期の東北の弥生土器たちと強い共通性をもちますが、後半になると徐々に道央より北側の土器たちの特徴とまざりあい独自のすがたを見せるようになります。
茂別遺跡で見つかっている土器はこのうち前半にあたりますが、文様はやや崩れたような北海道独自のアレンジが加えられたものが多く見られ、北の文化と南の文化の道が徐々に分かれつつあるすがたをあらわしているかのようです。
さらに、茂別遺跡の土器たちについて特筆すべき点は、土器の開いた口の縁にクマの意匠(いしょう)(デザイン)を施したものが多く出土しているという点です(図3右)。縄文時代も動物をかたどったデザインの土器・土製品は少なからず出土しますが、クマをかたどったものは多くはありません。ですが、この続縄文時代・恵山文化において急にその数を増やします。
アイヌ民族の人びとは、クマ(ヒグマ)をキムンカムイ(山の神様)と呼び、豊穣(ほうじょう)を祈る熊送りの行事「イオマンテ」などに見られるように大事に敬っています。あるいはこうしたクマに対する崇敬(すうけい)の想いの原初のすがたが、茂別遺跡資料のような続縄文文化の文物に施されたクマ意匠にあらわれているのかもしれません。

次に石器についてお話しましょう。
恵山文化の特徴的な石器に「魚形石器(ぎょけいせっき)」と呼ばれるものがあります(図4)。両端に溝がめぐらされたカツオブシのような形のこの石器は、茂別遺跡出土のものはほぼ全て粘板岩(ねんばんがん)でつくられ、表面を光沢が出るほど磨かれています。これは、現代の「テンテン」と呼ばれるオヒョウなどを釣る際に使われる疑似餌(ぎじえ)(図4下)とよく似ており、同じような使い方がされたものと考えられます。海沿いで活躍し漁撈を主体とした恵山文化の特徴をよくあらわしているといえるでしょう。
最後に、玉(アクセサリー)についてお話したいと思います。
茂別遺跡では、続縄文時代のお墓から副葬品としてヒスイ製・碧玉(へきぎょく)製の管玉(くだたま)(細長い円柱状の素材に孔(あな)を通したもの、首飾りなどに用いた)が見つかっています。
茂別遺跡の管玉は、分析の結果ヒスイは新潟の糸魚川(いといがわ)産、碧玉は新潟佐渡の猿八(さるはち)産であることがわかっており、遠く離れた日本海沿岸まで人びとのつながりがあったことがうかがえます。
広くはるかに津軽海峡とその対岸を望む岬に営まれた茂別遺跡の恵山文化集落。そこからは、はるか遠い海を越えた人びととのつながりを深く保ちながらも、北の大地とともに自分たち独自の歩みを始めんとする、いにしえの北海道島に暮らした先達(せんだつ)たちと、当時も今も北斗が果たす文化の交差点という役割、その時代を越えた「地」のつながりが感じらます。