はるかむかし、旧石器時代・縄文時代から現代に至るまで、一万有余年の間、ここ北斗の地で営まれ続けた人類の歩みー。
当コーナーでは、こうした北斗の歴史について、「遺跡」に焦点を当て、今回は江戸時代前半から半ばにかけて、和人とアイヌの人々との関係が大きく動く時代についてこ紹介します。
これまで当コーナーでは、「遺跡」を主題に置いて北斗市地域の歴史をつづり、第7回では江戸時代前半までについて紹介しました。しかし、ここで一つ問題となることは、当地においてその次の時代―江戸時代前半から半ば―にかけての遺跡は現在見つかっていない、ということです。その一方で、古記録・紀行文・古地図など文献史料の調査を進めており、現在合わせて約100件ほどの史料から当時のデータを集めることができています。 北海道、そして北斗の歴史において、この時代は非常に大きなポイントとなる避けては通れない時代です。よって、コラムテーマは従来通り「ほくと遺跡ものがたり」ですが、今回に限り、遺跡によらない「ほくと歴史ものがたり」になることをお許しください。
当コーナー第7回にて紹介したとおり、当時の古地図を調べると、北斗市地域の地名として「ススホッケ」「トウヘチ」「モヘチ」「ヘケレケチ」と、いずれもアイヌ語に基づく地名が表記され、そのほか『津軽一統志』(寛文9・1669年)や『寛文拾年狄蜂起集書(かんぶんじゅうねんてきほうきしゅうしょ)』(寛文10年)などの文字史料でも、知内より東については「狄居(てききょ・アイヌの人々の住まう場所)」あるいはアイヌの人々の村々が「おとな(代表者)」の名とともに記載され規模・数ともに和人の村をしのぐなど、少なくとも17世紀の半ば〜後半ごろまでの北斗市地域における生活者の主体はアイヌの人々であったと考えられます。
17世紀当時の北海道では、アイヌの人々はそれぞれの部族間の抗争や交流などを経て、広い範囲での文化的・政治的なつながりとまとまりをもつ地域集団が形作られていました。例えば、胆振(いぶり)・日高地方を領域としたシュムクル、シブチャリ(現在の静内町周辺)から釧路・厚岸までの広い範囲を領域としたメナシクルなどがそれにあたり、その中でも有力なまとめ役となる首長を松前藩は惣大将(そうだいしょう)または惣乙名(そうおとな)と呼んでいました。
彼らは共同体としてそれぞれが強い独立性を有しており、その中で松前藩の扱いは(松前藩側がどう考えていたかはともかく)そうした関係性の下、対等に交流する一勢力に過ぎなかったようです。その性格は『津軽一統志』に見える、当の石狩アイヌの惣大将・ハウカセの「松前殿は松前の殿、我等は石狩の大将」という言葉からもうかがい知ることができます。 当時の北斗市地域におけるアイヌ・和人の混居する姿は、こうした広域なアイヌ地域集団がそれぞれ割拠する蝦夷地と、当時は松前・福山周辺に限られていた和人地との、いわば緩衝地域としての役割を果たしていたともいえるでしょう。
この関係に大きな変化をもたらしたのが、寛文9(1669)年に起きたシャクシャインの戦いです。松前藩二代藩主・公広(きみひろ)の三男であり、当時幕府の旗本としてこの戦いの指揮を執った松前泰広の報告に基づく『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書(しぶしゃりえぞほうきにつきしゅつじんしょ』によれば、ことの起こりは慶安元(1648)年、良好な漁場であったシブチャリでその領域を接していたメナシクルの大将・シャクシャインとシュムクルの大将・オニビシとの争いでした。
この抗争の背景としては、当時の自然環境の悪化をその一因と考えることもできます。寛永17(1640)年、駒ケ岳が約3千年ぶりに火山活動を再開し、山体崩壊を伴う大噴火を起こします(寛永大噴火)。現在の特徴的な姿の原因ともなった山体崩壊に伴う大量の岩屑(がんしょう)なだれが太平洋へと流れ込み大規模な津波が発生、道南の東側から十勝にかけての広い範囲に被害を及ぼします(ちなみに、この時に折戸川がせき止められてできたのが大沼・小沼です)。また、広範囲に降った火山灰もあわせ彼らの生活の基盤に大きなダメージを与えた可能性があります。
なお余談ではありますが、地名調査の一環として、江戸時代に著された史料中で現在の『駒ケ岳』が何と呼ばれていたかについても情報を集成しており、現在60件ほど確認できていますが、そのうちもっとも古い寛永20(1643)年の『新羅之記録(しんらのきろく)』から幕末に差し掛かる1840年代までの200年間については、ほぼ一貫して「ウチウラ(内浦)嶽(山)」の名で呼ばれており、「駒ケ岳」という呼び名が完全に一般化するのは明治以降であることがわかっています。 この「ウチウラ」については、「内浦」表記が一般的なため一見和語由来に見えますが、天明8(1788)年の『松前蝦夷地之図』では「此山ヲ蝦夷ハ内浦ヶ嶽ト称ス(この山をアイヌの人々は内浦ヶ嶽と呼んでいる)」とあるように、どうやらアイヌ語由来の地名であったようです。
その語源について明確に言及した記録は現在見つけられていませんが、推定されるものとしては並んだ二つの峰を見立てたu-tura(ウトゥラ、互いに・一緒にいる)、あるいは噴煙を上げる様から見たuhuy-nupuri(ウフイヌプリ、燃える・山=火山)などが考えられるかと思います。
6年に渡るこのメナシクルとシュムクルの争いは、交易への支障などを危惧した松前藩の仲裁により一度は収まります。 しかし寛文7(1667)年、シャクシャインとオニビシの問で抗争が再燃し(この間に有珠山が1663年、樽前山が1667年に大噴火を起こしており、これらによる生活環境の悪化が引き金となっている可能性もあります)、オニビシが殺されてしまいます。この際シュムクル側の使者ウタフらが松前へ赴き兵員や武器などの援助を求めましたが、松前藩は中立を守るためこれを拒否。その帰路において、不運にもウタフが庖瘡(ほうそう・天然痘)にかかり死んでしまうのです。
当時、天然痘は世界各地の人々を苦しめていたウイルス性の感染症で、致死率も非常に高いものの、千年近くこの病とともにあった和人にとってはある意味ありふれたものでもありました。しかし、長く北海道島で独立した暮らしを続けていたアイヌの人々にはそれに対する免疫は皆無に等しく、後の時代にはさらに甚大な被害をもたらすこととなります。
このウタフの死が「松前藩による毒殺である」という風説となってアイヌの人々に伝わり、さらに交易上の不公平や資源の収奪など長年の和人への不満も重なり、松前藩ひいては和人全体への敵対心を強めることとなります。これを受け、シャクシャインは敵対関係にあったシュムクルを含む蝦夷地全域のアイヌに蜂起を呼びかけ、結果、寛文9(1669)年6月、各地で一斉に和人に対する襲撃が行われることとなります。この時犠牲となったのは鷹待(たかまち・当時松前藩の主要な財源の一つであった鷹を捕らえるために蝦夷地入りしていた鷹匠)や金堀り、あるいは商船の乗組員である商人や水夫といった、アイヌの人々が不満を募らせる対象となっていた行為に関わる人々がほとんどでした。この事態の報告を受け幕府は指揮官として旗本・松前泰広を派遣するとともに、松前藩勢に津軽藩による援軍を加え鎮圧を図ります。これが、後にいうシャクシャインの戦いの始まりでした(この際の津軽藩の記録が『津軽一統志』に記載され、当時の蝦夷地の有り様を知る貴重な史料となっています)
戦いは約半年の間続きましたが、石狩アイヌなどシャクシャインの蜂起に呼応せずに中立的な立場を貫いた地域集団や、またシャクシャインと敵対関係にあるなどの理由で松前藩側につくアイヌの人々もおり(一方、シャクシャインの娘婿庄太夫(しょうだゆう)など彼の側につく和人もいました)、徐々に追い詰められたシャクシャインは、戦いの早期決着を望む松前藩からの和睦の提案を受け入れます。この和睦の場で松前藩はシャクシャインを奇襲して殺害し、戦いは終わりを迎えます。
この戦いの結果、松前藩は敵対的・友好的いずれにも関わらず、全てのアイヌの人々に七か条からなる起請文(きしょうもん)により「逆心仕る間敷(ぎゃくしんつかまつるまじき)」ことを誓わせ、これにより和人(松前藩)とアイヌの人々の関係性は統治する側とされる側という枠組みに組み込まれ始める事となります。
シャクシャインの戦いの結果は、現在の北斗市地域のあり方にも変化をもたらすこととなります。 宝永7(1710)年に松宮観山によって著された『蝦夷談筆記』によると、シャクシャインの戦いから40年が過ぎた当時でもなお江戸時代後半に見られるような厳格な蝦夷地と和人地との区別はなかったようです。また、現在の北斗市内でいうと茂辺地・富川・戸切地(当時の「戸切地」は戸切地川下流域一帯)などではまだアイヌの人々と和人の人々は交じりあって住んでいたことがうかがえます。
しかし、当地に住むアイヌの人々にとって和人と共に暮らすことは居心地のよいものではなく、徐々に蝦夷地へと移り住み最近はすっかり少なくなってしまった…とも書かれています。この居心地の悪さの要因は、やはり先の戦いによって生じた和人とアイヌの人々との関係性の変化にあるでしょう。元禄13 (1700) 年の『松前島郷帳(まつまえじまごうちょう)」では、亀田番所の役割として「夷往来他国廻船改(えぞおうらいたこくかいせんあらため)」とあり、アイヌの人々の蝦夷地との往来に制限が設けられていたことがわかります。
また先に挙げた『蝦夷談筆記』や『松前年々記』などの記述によると、17世紀末から18世紀前半にかけ天然痘が渡島半島西側のアイヌの人々の間で流行し壊滅的な被害(「大方絶尸候事(おおかたしにたえそうろうこと」)を与えており、これも彼らにこの地を離れる決意をさせた要因であったかもしれません。
こうして、現在の北斗市地域は徐々に明確な「和人地」へと変わり行くとともに、現在の街並みの基礎となる新たな村々も生まれ始めます。その源となったのは、この地を貫く二つの街道にありました。次回は、この二つの道をとりまく地域の変遷について紹介します。