中村長八郎は1868年(慶応3)、初代の大野郵便局長を務め、植林事業や酒蔵など多くの事業を展開した中村長兵衛の長男として生まれました。
1879年(明治12)大野学校(現在の大野小学校)を卒業。在学中はよく勉強ができ、教員が休みの時には代わって授業をするほど学力が優れていたといいます。青年時代に上京、書生や農場の管理人などをしたのち、故郷へ帰り、父の経営する郵便事業を手伝うかたわら、山林管理にも当たりました。
1904年(明治37)、38歳の若さで北海道議会議員に初当選しましたが、1906年(明治39)、政治の地盤を同郷の能戸清五郎に譲り、家業に専念します。のちに二代目郵便局長となり、1924年(大正13)には村議会議員にもなり1931年(昭和6)、64歳で永眠するまで多くの事業を手がけました。
1875年(明治8)に父・長兵衛が酒造りを始め、その後、長八郎に引き継がれました。大野米と大野川の清らかな水を使い、銘酒といわれた「大の川」を醸造しました。毎年、米の収穫が終わった10月ごろには、京都伏見や東北から杜氏が家族ごと来町し、雇い人などと「しこみ唄」を唄いながら、にぎやかに酒造りが行われました。
中村家の酒造りは、長八郎が亡くなると同時に、その歴史は途絶えましたが、大野産の酒米「大野万太郎」で造った酒の地位を不動のものとしました。
長八郎が亡くなった後、1934年(昭和9)の北海タイムスに北海道工業試験場発表という見出しで「大野米でつくった酒は、灘の酒に劣らず」との記事が掲載されました。
1909年(明治42)には、農事試験所(現在の道南農業試験場)の設置にあたり、進んで自らの土地を提供して誘致に尽力。2年後には、この試験場で米の試食会が開催され、大野米は「全道一おいしい米」と評価されました。
1925年(大正14)には函館と大野間に電車を走らせようとした大野電軌株式会社(のちの大函電鉄)の設立発起人にもなりましたが、残念ながらこの構想は実現できず、幻の鉄道に終わりました。
現在、向野にある八郎沼は、長八郎の名にちなんだもので、水田のかんがいの用水源確保と養鯉場として修築し、鯉を養殖して鯉料理店を開く構想でしたが、1931年(昭和6)志半ばで亡くなっています。
1980年(昭和55)、自治制施行百周年記念で、町の発展に寄与した功績に対し、故人ではありますが特別功労者表彰が贈られました。
ー北斗市教育広報 きらめき38号よりー
中村長八郎 | 酒造りに使用した手桶と結婚祝いなど で贈られた「大の川」名入りの風呂敷 (北斗市郷土資料館収蔵) |
現在の道南農業試験場 | 現在の八郎沼公園 |