カール・ワイデル・レイモンは1894年(明治27)、オーストリア・ハンガリー帝国ボヘミア地方力ールスバート(現チェコ共和国)で、食肉加工を営む家の四代目として生まれました。1912年(大正1)に19才で食肉加工マイスターの称号を取得し、ヨーロッパ各地、アメリカなどで加工技術・経営学を学びました。1919年(大正8)日本に立ち寄り「東洋缶詰」に勤務、函館を拠点にカムチャツカで仕事をしていたレイモンは、おいしいステーキを食べさせてくれる店、勝田旅館を見つけました。そこで旅館の長女コウと知り合います。コウは庁立女学校(現函館西高校)で英語を習い卒業後、旅館の手伝いをしていました。コウはドイツ人で英語が話せたレイモンと知り合い二人は恋に落ちます。二人はコウのご両親に許しを乞うのですが反対されました。1922年(大正11)2月に駈け落ちし、レイモンの故郷であるカールスバートで1922年4月25日、結婚式を挙げ、ハム・ソーセージ店を開きます。
カールスバートは保養地でヨーロッパ各地から人が集まりお店は大繁盛しました。
1924年(大正13)、二人は函館に戻り、五稜郭駅向かいに店と工場を開きます。魚のおいしい函館では、ハムやソーセージなどを食べる習慣がなかったため、なかなか売れませんでした。巡洋艦工ムデン号が函館港に入港、乗組員は久々の本物のソーセージにありつき喜んで食べてくれたそうで、レイモンは仲良くなった司令官に、函館で補給する物資の調達を任せられました。
そのおかげもあり、お店が繁盛しだすと、今度は、各地から仕入れていた肉の品質に納得がいかなくなってきました。特に夏場には鮮度が落ちてしまうため、自信をもってお客様に提供できません。そこで、飼育から加工までを一貫して行う加工場を必要と考えました。
1932年(昭和7)、旧大野村の本郷駅近くに、牛35頭、豚310頭を飼育する大きな畜舎やサイロ、食肉処理加工場を併せ持つ大施設を建設し、大野工場と命名しました。
畜育から食肉加工までの一貫経営は、経済人・人的資源の活用や産業の育成等地域との交流が行われた。また、敷地内にはミニ動物園を開設してライオン2頭、ヒグマ2頭のほかイヌ、ネコ、サルやタカなどを飼育し、地元はもとより函館市内からも小学生が遠足で訪れ賑わったと言われています。
1938年(昭和13)戦中の事情から突然、工場は強制買収、ハム・ソーセージの製造までも禁止され、「大野工場」は閉鎖させられました。
レイモンは函館への移住を余儀なくされ、工場敷地内にあった動物の霊をまつった獣魂碑は、市渡住民の手によって、近くの市渡馬頭観音の境内に移設されています。
レイモンは、函館元町(現在のレイモンハウス)に移り住みます。戦後の1925年(昭和25)自宅横に50m2ほどの工場を作りハム・ソーセージ造りを再開しました。
「私のハムは生きています」と言ったレイモンは、自らを「胃袋の宣教師」と呼んでいます。日本とドイツの友好に関する長年の努力が称えられ、西ドイツ大統領から功労勲章十字章が送られました。1987年(昭和62)に93年の生涯を閉じました。
ー北斗市教育広報 きらめき34号よりー
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