北斗市郷土資料館
三木 露風(みき ろふう)1889〜1964

生い立ち

三木露風(本名三木操(みさお))は明治22年6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現龍野市龍野町)に父三木節次郎・母かたの長男として生まれました。5才の時、 両親が離婚、祖父の元に引き取られて育った。明治32年4月に龍野高等小学校に入学。そこで出合った教師松本南楼の感化を受けて句作。このころの作に「赤蜻蛉(とんぼ)とまっているよ竿の先」があり、友人数名と謄写刷りの回覧雑誌「少園(しょうえん)」を作る。年齢は13才であった。

明治36年4月に県立龍野中学校に主席で入学。翌年には岡山県和気郡伊里村(現備前市)の私立中学閑谷校に転学したが8ヶ月後には同校を退学し、上京。このころ回覧雑誌「聚雲」の会に参加し北原白秋、若山牧水らと出会う。

明治42年に発刊した詩集「廃(はい)園(えん)」は北原白秋詩集「邪宗門」と並び好評を博した。明治45年、北原白秋・三木露風合同著「勿忘草」を刊行した。 11月には『独歩詩集』刊行。これは国木田独歩の曾祖母が、三木家出身の縁により編者となる。

トラピスト修道にて

大正3年栗山なかと結婚。翌大正4年に初めて北斗市当別地区にある北海道トラピスト修道院を訪れ3週間滞在。修道院滞在中の詩を収めた『良心』を刊行している。大正7年には、鈴木三重吉主宰の「赤い鳥」に童謡「毛蟲(けむし)とり」を発表。大正9年に斉藤勇、野口雨情、山田耕筰、藤森秀夫、近衛直麿などと「牧神会」を結成。同年からトラピスト修道院の日本文学講師に就任し、妻同伴で来道し修道士たちに文学概論、天学概論や普通学を教える。大正10年、童謡集「真珠島」で、露風が故郷で過ごした子どもの頃の郷愁から作った名作『赤とんぼ』を発表した。

この頃の逸話として、露風が土地の子を集めて文学塾を開いたが、当時はイカやイワシの大漁に沸く漁村で、ネコの手も借りたいほどであり、学問や詩を創るなどの風潮は受け入れられるような時代・土地柄ではなく、地元言葉で「からっぽやみ(怠け者)の所へ行けばグズになる」と言われ露風の文学塾の看板は数日で降ろされ、幻になったと言われている。(上磯町歴史散歩より)

また、夫人と共に洗礼を受け、洗礼名を「パウロ」、夫人は「モニカ」とした。キリスト教信仰に基づく詩集のほか、随筆『修道院生活』や『日本カトリック教史』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与された。大正13年、トラピスト修道院を辞め上京。「トラピストより下りて」を読売新聞に発表する。 この年から雅号を羅風(らふう)に改名。羅の字はイタリアローマ(羅馬)が由来。 大正15年・昭和元年7月『修道院詩集第二巻・神と人』刊行。雅号を露風に戻す。昭和3年三鷹村(現三鷹市)に住居を構える。昭和15年、郷里池畔に「ふるさと」の詩碑が建立される。

昭和38年、紫綬褒章を受章。昭和39年(76才)11月「小説新潮」に詩「紅葉」を発表。同年12月21日午前9時15分頃連雀郵便局から出たところでタクシーにはねられ、救急車で病院に運ばれたが脳内出血のため29日午前死去。享年76才。三鷹市大盛寺の墓に眠っている。 昭和40年に勲四等瑞宝章を追贈され、郷里の龍野市龍野公園に「赤とんぼ」の詩曲碑が建立された。また、昭和46年、函館市・上磯町(現北斗市)の有志や、トラピスト修道院、詩歌人らの発起により、トラピスト修道院の露風旧住居の近くに詩碑を建立。詩碑建立期成会からトラピスト修道院に寄贈された。
ー北斗市教育広報 きらめき30号よりー

トラピスト修道院にて 後列中央が露風 トラピスト修道院の前庭にある詩碑 昭和46年建立の詩碑
トラピスト並木道
露風
大野文化財保護研究会

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