種田金十郎は江戸時代最末期〜明治時代にかけて活躍した、有川村(現・北斗市中央)の網元・種田家の八代目当主である。大畑村(現・青森県むつ市)で天保2(1832)年8月に西田平四郎の次男として生まれ、後に種田家の七代目徳左衛門の長女・リエと結婚し家督を継いだ。この頃の種田家は天保年間(1831〜45)より、道内各地で漁場を営む大網元であり、また多くの農地・山林を有する大地主でもあった。このため庶民でありながら苗字帯刀を許され松前藩士も務めており、後に金十郎は会計方として財政難の同藩を支えている。
金十郎はさまざまな方面において功績を残している。まず網元としては、冬季のニシン漁において主流であった引き網漁は費用・労力ともに甚大であったため、文久3(1863)年に幕府の許可を受け初めて建網漁に改め、漁獲高千石(約150トン)、売値千五百両余(現在価値で約8千万円)という莫大(ばくだい)な成果をあげた。この後、他の村民も競って建網を用いるようになったといわれている。
地主としては、幕府より中野の原野開墾を命じられた際、村民に必要性を説き、また自らも奮い立ち共に働いて数百町歩の湿地を畑地として開いた。こうした金十郎の先進性は種田家に莫大な資産をもたらし、同家は全盛を極めることとなる。また金十郎は公益のためにも尽力している。松前藩政においては、福山城の築城に冥加金(みょうがきん)百両、米百俵などを献上、また開国に伴い穴平(あなたいら 現・北斗市野崎)に築かれた松前藩戸切地陣屋(現・国指定史跡)の造営にも従事した。十二代藩主松前崇広(たかひろ)が幕府老中格海陸軍奉行に任ぜられた際にも金二百両を献上している。こうした築城や財政面での貢献のみならず、安政元年に箱館港にペリーら米艦隊が来航したときには同艦隊停泊中の市中見回(みまわり)・取調(とりしらべ)の藩命を請け、婦人・小児の保護に奔走した。
このほか藩命によらずとも村に災害が起こると百姓たちに米二百俵を分け与え、木古内・箱館の火災時にも見舞金や米を提供し困窮者の救済にあたるなど、官民問わずあまねくその篤志を施すまれにみる大人物であった。
明治以降も、金十郎は地元の発展のために力を尽くした。中でも著名な業績は、北斗市におけるセメント生産の端緒を開いたことである。明治5(1872)年、開拓使の巡検により義朗(がろう)鉱山が発見され、その有望性を認められる。これの開発について相談を持ちかけられた金十郎は、有志と図り資本金五万円(現在の価値にして約5億円)を投じて明治17年、上磯セメント工場を設立する。この事業は5年ほどで撤退するが、その権利を譲り受けた吉川泰次郎らによって明治23年に北海道セメントとして再出発した(この際、金十郎も園田実徳(そのださねのり)、平田文左衛門らとともに取締役に名を連ねている)。以来、セメント工場は幾度かの変遷を経つつも現在まで約135年の問、当地の経済を支え続けている。
このほか学制発布以降、村内各地に設立された小学校や上磯病院などの建築費用としてその財を惜しみなく投じ、開拓使、函館県、北海道庁などから数多くの表彰を受けている。
その類まれなる財力、そして惜しみなく世に広く尽くす篤志を讃え人々から「渡島王」と呼ばれた金十郎は、明治39年1月5日、73歳にて没する。
彼の墓所は広徳寺(北斗市中央)にある。参道の正面に向かって左側、檀徒(だんと)墓地の入り口にある幅2層、高さ4層の御影石の一枚岩に彫られた「種田家累代之墓石」がそれである。
ー北斗市教育広報 きらめき50号よりー
渡島王と呼ばれた種田金十郎 | 広徳寺にある「種田家累代之墓石」 |