北斗市郷土資料館
上田 仁(うえだ まさし)1904〜1966

生い立ち

上田仁は明治37年(1904)12月9日、旧大野村西上町(現大野小学校付近)の医師・上田春庭・サウ夫妻の間に生まれた。当時医師は、その地方を代表する上流階級家庭であり、幼い仁の周囲は教養的な雰囲気に満ちていたが、決して秀才といわれるタイプではなかった。明治44年(1911)、大野村尋常高等小学校に入学。この頃はまだ音楽的な才能の芽生えもなく、とりわけ算術は苦手で、体操の鉄棒が得意であった。卒業後、東京の電機学校(現東京電機大学)に入学したが、大正中期の浅草オペラの田谷力三に魅せられ、すぐ電機学校をやめ、東洋音楽学校(現東京音楽大学)へ移った。

音楽家人生

声楽科を専攻したがあまりうまくならず、ピアノ科へ転じ、指先がはれあがるほど毎日練習し、その甲斐があってメキメキと上達した。大正11年(1922)、音楽学校を卒業したときは、純粋な音楽愛に満ちており、生涯かけて音楽の道一筋に歩いていこうという固い決意があったが、世間では音楽がまだ理解されておらず、彼の伯父は「いくらあいつが楽隊で金をもうけても、オレは偉ぇと思わねえからそう思え」と残して息を引き取るほどであった。そんなピアニスト上田にも良いこともあった。東洋音楽学校の卒業生の中から6人の優秀者が選ばれて、東洋汽船に乗り組むことになった。一等船客に音楽を聴かせるためである。上田もそのメンバーの一人に選ばれた。
 およそ2年の間、ピアノを弾きながら、香港、上海、ホノルル、サンフランシスコなどへ何度も航海したのであった。この乗船での音楽家は特に優遇され、当時のアメリカは移民法などの制限を受けて、港に着いてもごく少数の高級船員しか上陸が許されなかったが、音楽家たちは真っ先に上陸を許可された。上田は音楽家として本場の演奏会を聴いたり、ヨーゼフ・ローゼンシュトック(注)を訪問して指揮法の教えを受けたりした。大正14年(1925)になり山田耕筰主宰の日本交響楽協会に入り、ファゴットの練習を始めた。15年(1926)に近衛秀麿により新交響楽団(現NHK交響楽団)が設立され、上田はこれに加わり、17年間このオーケストラの首席ファゴット奏者を務めた。
 昭和12年(1937)には大野小学校の校歌を作曲し、翌年、大野小学校開校60周年記念事業で披露されている。函館にもたびたび演奏に訪れ、函館巴座で木琴奏者の平岡養一や喜劇俳優の益田キートンと上田のピアノの共演も行われた。
 昭和17年(1942)に東宝撮影所のオーケストラに入団するとすぐに、現代音楽や、日本人作曲家の作品紹介を始めるなかで、上田は指揮者も務めた。 戦後、このオーケストラが東宝交響楽団に発展し、さらには東京交響楽団へと成長していく中で、上田は指揮者としての頭角を現していった。その功績が認められ、昭和25年(1950)には毎日(新聞)音楽賞を受賞。昭和31年(1956)には南米演奏旅行。昭和32年(1957)、アルゼンチン国立放送局より特別指揮者として招待される。昭和33年(1958)にはソビエト演奏旅行。昭和34(1959)ソビエト文化省より芸術名誉賞を受賞。昭和39年(1964)まで東京交響楽団の指揮者を務めた。昭和41年(1966)12月26日、大阪でピアノ指導中に急死。62年の生涯を閉じた。
 平成8年(1996)、東京交響楽団創立50周年に「永久名誉指揮者」の称号受賞している。

(注)ポーランドに生れ、ドイツ・アメリカ・日本で活動。NHK交響楽団の基礎をつくり上げたユダヤ系の指揮者。
ー北斗市教育広報 きらめき46号よりー

北斗市が生んだ音楽家上田 仁 郷土資料館にある上田ゆかりの品々
大野文化財保護研究会

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