北斗市郷土資料館
山田 喜平(やまだ きへい)1893〜1966

生い立ち

北斗市が生んだ日本めん羊界の権威・山田喜平は明治26(1893)年2月28日、旧大野町本郷の山田多三郎・クリ夫妻の長男として生まれました。大野小学校、函館中学(現:函館中部高校)を卒業後、大正3(1914)年盛岡高等農林学校獣医科を優等な成績で卒業し、すぐに母校の助手となりました。大正11年から昭和3(1928)年までの6年間、農林省に勤務し、その後、農林省種羊場技師、札幌の月寒種羊場勤務となって北海道に帰り、同7年に滝川分場に移動し初代北海道庁種羊場長となりました。

日本のめん羊の歴史

日本国内のめん羊飼育は、明治以来、急激に消費が増加した羊毛の国内自給を目指す政府の奨励で開始されました。明治6年開拓使の依頼を受けた米国人エドウィン・ダンは、米国からめん羊100頭を取り寄せ、七重勧業試験場(道南農業試験場の前身)に導入し飼育技術を伝授しています。
 さらに明治27年の日清、37年の日露戦争を経験した明治政府は、国防上、軍服や警官服の被服資材である羊毛の国内自給を図るため、明治41年から月寒で試験飼育し、大正8年には国内に5つの種羊場を設置しました。北海道には札幌の月寒と滝川に種羊場が置かれ、喜平が勤務した月寒種羊場では、オーストラリアやニュージーランドから種めん羊を輸入し、改良増殖と飼育奨励が進められました。
 種羊場は数年後、政府の行財政整理によって、道内の2か所を残して廃止され、昭和6(1931)年には滝川も北海道庁に移管し、国内のめん羊増殖改良業務は、主に月寒と滝川の担当となりました。 農林省勤務時代からの喜平の業績で特筆すべきなのは、日本めん羊界の権威として、品種の改良に多大な貢献をしたことと、幾多の後進の指導育成にあたったことです。
 喜平は退職後も指導には特に熱心で、めん羊界に関する各種団体の顧問や後進の指導にあたりましたが、昭和41(1966)年6月28日、東京築地ガンセンターで死去、享年73歳でした。自分に厳しく、他人に対しては寛容な性格だったといいます。
 めん羊の飼育は毛羊種の時代が長く続きましたが、一般に普及するのは戦後で、この頃には毛肉兼用種に変わり、やがて肉用種の時代を迎え、肉専用種のサフォーク種の導入が盛んになっていきました。 国内では昭和32年頃100万頭近くが飼育され、道内でも30万頭くらいが農家の庭先などで飼われていました。旧大野町でも昭和10年台後半から増加し、飼育戸数333戸、438頭が飼育されていましたが、その後、化学繊維の出現や羊肉需要の増加などで全国的に激減の一途をたどりました。現在の北斗市では1戸・74頭と、大野農業高校で3頭が飼育されているだけです。
ー北斗市教育広報 きらめき42号よりー

めん羊の改良に尽力した山田喜平 山田喜平が書いた「めん羊とその飼い方」
ジンギスカンの調理法が詳しく記載されている
現在、大野農業高校で飼育されている
チェビオット種とサフォーク種の混合種
大野文化財保護研究会

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