大函電鉄とは、函館の海岸町と大野の本郷(現在の鹿島橋付近)の間に電車を走らせ、乗客と荷物を運搬するとともに、駅周辺など沿線に大規模な住宅団地を計画したものである。
 大正十四年(一九二五年)、大野や函館の有志が発起人となり、大野電軌株式会社を設立、軌道敷設申請書を内務大臣と鉄道大臣に提出している。昭和三年(一九二八年)に許可となり、昭和六年(一九三一年)には大函急行電鉄株式会社として施行の認可もおり、一部着工はしたものの、折からの財政不況により資金・資材不足や一部地権者の反対などもあって思うように進まなかった。それでも工事は、枕木・電柱の敷設など相当のところまで進んだが完成に至らず、昭和十二年(一九三七年)当時の鉄道省に許可を取り消され、遂に幻の電鉄になってしまった。
 下町(本町)には鉄道労働者の宿舎もあったが、朝鮮から強制連行された労働者らの宿舎だった。国道二二七号沿いなど町内の数か所に橋台などの残骸があったが、現在はほとんど取り壊されてしまった。
 もし、完成していれば、現在の大野の町並みもずいぶん変わっていただろうと思われる。大正末期から昭和初期にかけた先人達の大いなるロマンは、平成を迎え「新幹線」に変わって、引き継がれている。
<大野文化財保護研究会>