野球の名門「函館太洋倶楽部」の黄金時代を築いた伏見勇蔵(明治十六年生)の出身地ということもあって、大野は相撲とともに人気を呼んだスポーツで、早くから町民の間で行われていた。
この野球の中核をなしたのは大正十年(1921年)に創立されたダイヤクラブである。創設当時のメンバーは、広照寺の住職・百目木隆寛を監督に役場職員・医師・小学校の教師・村の実業人らで構成されており、町村のチームとしては珍しいほど強力なものであったという。
伏見勇蔵が単独で大野に来て、コーチしたことも両三度あり、また日本の名捕手久慈次郎が、名投手橋本隆造と共に来て、コーチをしたという記録も残っている。先輩が若手の選手を育てるという、よき伝統もあり、その伝統は戦前・戦後を通じて守られたが、社会の変動に伴って、若者の流出、スポーツの多様化などにより、ダイヤクラブも衰退を余儀なくされた。
しかし、先輩諸氏によって培われた精神と伝統は子供たちが立派に受け継ぎ、大野小学校の児童で編成した「大野少年ダイヤ」は、平成八年の全道大会において北海道一の栄冠に輝いている。
<大野文化財保護研究会>