大野町向野にある沢村家の水田の畦地に「無名戦死者の墓」がある。明治元年(1868年)から翌二年に行われた箱館戦争戦死者の墓である。
大野村は、箱館戦争の拠点の一つとなった。当時市渡村(現在は大野町の一部)の名主は、沢村久之丞であった。箱館戦争勃発と同時に、榎本軍が陣を構えるなど、否応なしに戦争の渦中に巻き込まれ、名主として大変苦労したという。
沢村家は、小川地区(現在は大野町向野)にあったが、間口が十間(約十八メールル)もあり、家の半分は土間(作業場)だったため、明治元年の冬、榎本軍が下二股口(台場山)の陣地を構築の際は、作戦本部に充てられた。その土間には、銃が四、五丁ずつ組んで立てられた。また、沢村家は幹部兵士の宿舎にもなったという。
この一帯は、沢村家の本家や分家が集まる篤農家ぞろいである。畦道の中間に百平方メートルぼと耕作しない広場を作り、直径八十センチぐらいの自然石を置いて、「箱館戦争無名戦士の墓」としてまつっている。毎年八月十三日には、一族そろって供養を続けているが、この戦死者が新政府軍のものか榎本軍のものかもはっきりしていない。
<大野文化財保護研究会>