開拓使長官黒田清隆による北海道養蚕場設置構想は、判官松本十郎によって計画された。大野町(現在の大野町向野)と札幌村の西部(現在の札幌市桑園)に、養蚕技術に優れた旧庄内藩(現在の酒田・鶴岡地方)の子弟・二百三十人を六班に編成して派遣し、開墾させた。
 一行は明治八年(一八七五年)五月二十六日、酒田港を開拓使所属の玄武丸で出帆し、同年六月二十九日函館の有川に上陸した。
 このうち、七十三人はここから陸路大野に直行した。ほかの者は、そのまま舟で小樽に向かい札幌桑園建設に従事した。大野桑園開墾の七十三人は、中黒の旗を押し立て、簔・笠を着け両刀を腰に、大野村に到着した。二日間の休暇の後、六月一日から活動を開始し、九月二十日までに約三十ヘクタールを造園した。なお、この事業には鹿児島藩の卒も若干名加わり、主に道路の設定や周囲の土塁作りに従事したことが、「北海道開拓秘録」などにも記載されている。
 この土塁は、大野農業高校の周囲に数か所あり、その大きさを測定してみると、幅約三メートル・高さ一メートル四十センチあり、時の経過とともにかなり沈下していることを考えると、当時は高さが二メートル位はあったと推定出来る。当時の事業の大きさと意欲がしのばれる土塁跡である。
 *明治初期の養蚕事業にかけた熱意を強調したいと願って「土塁」を取り上げた。「土塁」を「ルイ」と読ませるのは無理というお叱りもあろうかと思ったがお許しをいただきたい。
<大野文化財保護研究会>