裏の婆ちや
大野小高一   丸山 喜一郎

 僕の家の裏に、八十いくつの婆さんが住んでいるが、どこから来たものかわかりません。天皇陛下から、(さかずき)を二三回もいただいた人です。頭は真白で、腰が曲がり、いつもぼろぼろ切れた着物を着ています。そしてお寺の佛事(ぶつじ)には一度も行かぬことはありません。そのときは、よい着物を着ていくのです。
 家は堀立小屋(ほったてこや)で、周囲は粘土の壁です。入口には、すだれ一枚下げて、入るとすぐに土間で薄暗く、そばに破れた紙の小さな窓があって、正面に佛様をかざっています。佛様(ほとけさま)は、蜜柑箱(みかんばこ)に新聞紙を張つて机のやうにした上に立て、水を入れるものなどがおいてある。炉には古い釜がかけてあって、そのぞばには黒猫がいつもちゃんと座つて目をつぶつています。よその人が行くと目を開いて逃げていきます。家の隅の暗いところに棚があります。婆ちやは、朝と晩とには必ず「なんまんだ、なんまんだ」とながく佛様ををがんでいます。
 ある大吹雪の次の日のことでした。僕は二時頃から目をさまして早く起き、すっかり用意して雪をかきはじめました。雪は三尺くらいありました。六時頃に終へて休んでいたら「助けてけれであ(くれないか)」と裏の方から声が聞こえて来ました。行って見ると、婆ちやの家の前は屋根につくくらい雪が積って、出ることも出来ないのです。婆ちやはぽろぽろ涙をこぼして「喜一郎さん、助けてくんせ(ください)」と言って手を合せたたので、花岡の兄さんや丈太さんたちに話して道をつけてやったら、婆ちやは「ありがたい、ありがたい」と言って皆ををがんでいました。この日も前日以上の大風でした。
 次の日、少し天気もよくなったので、雑蔵(ぞうくら)の雪を下していたら、婆ちや袋を背負つて来ました。「婆ちゃ、どこさ行って来た」と言ふと、婆ちやは「おら、ゆうべの大風に、袋さ米入れて越前お母のところさ(に)逃げて、一晩泊まったさかい助かった。おら助からねで死ぬかと思った。家は丈夫だばよいども、それに子供の一人もいれば話相手になるがなあ。困るもんじや」と言って泣くや(よ)うにして笑ひました。又「猫にも話されんしな」と言ひながら、すだれをまくり上げ、雪をばたばたやりながら中に入って行きました。僕は「婆ちやだもなあ」と思ひながら雪を下しました。


■ことばの意味
【婆ちや】お婆さんのこと。
【盃】主に日本酒を飲むために用いる器のこと。ここでは、酒を酌み交わした意。
【堀立小屋】柱を直接土中に埋めて建てた小屋。また、簡単につくった粗末な家のこと。
【蜜柑箱】果物のみかんが入っていた木箱のこと。
【三尺】およそ91p



■綴方選評 鈴木三重吉
 丸山君の「裏の婆ちや」は、年級のわりには、感受が粗くて、叙寫にふかみがありませんが、事柄が事柄だけに、たとへこれだけでも、人間生活の一断面の記録として、或哀感的な牽引があります。黒い猫のうづくまっている、あの、小さな屋内の光景も、あはれに目にうかびます。
 お婆さんが、猫とはお話も出来んと言ひ「すだれをまくり上げ雪をばたんばたんやりながら」中にはいったといふところは、単純な叙寫ながら、ひどく印象的です。ただ、大雪が屋根にとどくほどふりつもつているといふのに、中にいるお婆さんが、涙をこぼし、手を合せて救ひをもとめるのがどこから見えたのでせう。あすこは、かき方に手おちがあるので、ちょっと、腋におちません。


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