馬鹿はつ子(推奨)
大野小尋五 吉田 孫七
ずっと前のことです。一ヶ月に二、三回は私の家(うち)に(物を)もらいに来る、少し半可臭(はんかくさ)い、はつという乞食(こじき)がありました。はつ子が来ると、家のお婆(ばあ)さんがいつでも家に入れて話をしました。話を聞きますと、はつ子の生まれたのは越中(えっちゅう)で、二十一(歳)で津軽へおよめに行って、二、三年たって子供をもってから頭が悪くなったので、家を出.されて、しまいに本当の乞食になったのだそうです。
やっぱり半可臭い(ばかが治らない)ので、いつでも家へ来.て、おいおい泣いたり笑ったりします。私たちは、はつ子が来ると、皆そろって「はつ子、はつ子、馬鹿(ばか)はつ子、煮た芋(いも)けるしけ(くれるから)、こーい」といいました。するとはつ子が怒(おこ)って怒って追っかけて来ます。そうすると子供が泣くので、また子供の手を引っぱって歩きます。
ある時、お婆さんが「はつ子、しばらく来ねがった(来なかった)なあ」というと、「どうして(来るどころか)、どこだか知らねども(しらないが)、あのいざんだりだが(市渡(いちわたり)らしいところ)から、ずっとあっちさ行ったけあ(行ったら)、巡査のよんたのに(ような人に)堀さ(人口の池)うずめられてしまって、ようやく助けてもらったんだもの」といっていました。
それから半月ばかりたつと、はつ子の子供が病気になりました。はつ子は毎日毎日、子供をおぶって、おいおいと泣きながら歩くようになりました。それからは全く気ちがいのようになって、夜でも道を歩いて、寺のだん(石段)のところに寝たり、麹屋(こうじや)の軒下に寝たりしました。人が言葉をかけても、わからないことをしゃべって、おいおいと泣くばかりでした。私たちは、はつ子のところへ行っては「はつ子、はつ子、泣きはつ子、わらしば(子供を)置いて、馬鹿はつ子」だの、「このわらし、馬鹿わらし」といって、からかいました。
それからだんだん寒くなって冬になりました。そしたらはつ子がちっとも来なくなりました。峠下(とうげした)(現七飯町峠下)の人に聞いてもわかりません。しばらくたって、お寺まいりのとき、麹屋の人が、ばばちゃんと話して.いるのを聞きましたら、「はつ子のわらし、死んだちもね(死んだそうだね)」といっていました。小さい時でしたが、何だかはつ子がかわいそうになって、馬鹿にしたのをあとあとくやみました。
それから三日目の朝に、また寺へ行ってみると、はつ子が死んだ子供を骨(こつ)にして来ていました。そこへ丸丁(まるちょう)(屋号_)のばっちゃ(お婆さん)が来て、「なして来てらば(どうして寺に来てたんだ)」と聞くと、「寺さ、このわらし埋めてもらてくたせ(もらいたくてさ)」といって泣きました。それから毎日、寺のところへ来ました。そして「死んだわらし思い出せば泣きたくなってせ(なってさ)。寺見ても、のう(寺を見ても泣きたくなる)」といいました。今はどこに行っているのかわかりません。
大正15年3月号
■ことばの意味
【乞食】食物や金銭を人から恵んでもらって生活すること。また、その人。
【越中】旧国名。北陸道七か国の一つ。現在の富山県にあたる。越の国を天武天皇の時代に三分して成立した。
【麹屋】麹は米・麦・大豆などを蒸してねかせ、コウジカビを繁殖させたもの。酒・醤油・みりんなどの醸造に用いる。当時はみそなどを自家で製造したので、麹を売る店も多かった。
※漢字や仮名遣いは現代風に改めています。方言などわかりにくい表現は、かっこ書きで補足しました。
■綴方選評 鈴木三重吉
五年の吉田君の「馬鹿はつ子」は、はつ子のつれている子供が、どのくらいの年の子供かということが、ばくとしていて(はっきりしなくて)分かりません。これは、全体的感興(かんきょう)(興味)の上に、非常な影響を及ぼすことで、甚(はなは)だおしかったですね。しかし、それはともかく、ああした馬鹿な女の乞食と、その運命の悲惨さとは、全編にわたり、立体的にしみじみと出ていて、哀感がそくそくとせまって来ます。ある一つの、人間的證券(しょうけん)(記録)として意味の深い作品です。あの女が、いたずらな子供たちがはやしからかうので、怒って追っかけて来ると、自分の子供が泣くので引き返すというところや、病気になった子供をおぶって、毎日、おいおい泣き泣き歩いているというあたりや、夜でも、よろよろそっちこっち歩いたり、人が言葉をかけても、わからないことをしゃべって、ただおいおい泣いているところなどが、一番の哀れをひく焦点です。どこかの村で巡査みたいな人に池の中へしずめられていたのを、やっと助けてもらって来たのだと話すところなども、むろん何というのだか、事実ははっきりしませんが、それだけにさもさも、馬鹿のいうことらしくひびく上に、その事柄自身が、この女が、方々で、人にいじめられたりしているかわいそうな境涯(境遇)を象徴しつくしていて、あわれです。