電話
大野小高二 濱田 サキ
夕飯を食べていると、祖父が「サキ、飯(めし)食ってから上磯さ電話かけてこい」と言った。私はまだ一度も電話をかけたこともなければ聞いたこともないので、黙っていると、祖父が「何ともないもんだ。気落ちつけて聞けばよくわかる」と言ったが、まだ安神(あんしん)出来ないから「何だか、おっかねいんでさ」というと祖父が「局さ行って、上磯二十九番をよび出して下(くだ)さいと言って十銭(じっせん)出せば、すぐ呼び出してくれるしけあ、今度、もしもし狩野(かのう)さんですか、私は本郷の濱田ですが、この間註文(ちゅうもん)したストーヴを、あすとりにいきますが、出来てるでしょうか、と聞けば、あっちで何とか答える。そのとき気落ちつけて聞けばすぐわかる」と言った。それでわたしたち姉弟(きょうだい)三人いっしょに家を出た。行く途中、三人で、口の中で何回もくりかえしているうちに、局まで来てしまった。局の中にはいるのが何だか、おっかないような、面白いような気がして、しばらく戸口(とぐち)に立ってから、元気を出して中にはいった。
局の人たちはみんなで何か食べているようであったが、すぐ出て来た。私は、「上磯二十九番をよび出して下さい」と言ったら「はい」と言って電話室の方へ行った。私は急に胸がどきどきして来た三人で顔を見合せて笑った。そのうちによび出してくれたので電話室へはいった受話機を手にして「もしもし、狩野さんですか、私は本郷の濱田ですが、この間註文したストーヴが出来たでしょうか」と言ったら「ああ本郷の濱田さんですかそれなら出来ていますが二番と三番の合いの子で……」とそこまでは聞えたが、あとが分らないので、又聞きかえしたが分らない。三回四回まで聞いたが分らないので黙っていると「どうもわからんなア」というのが、かすかに聞えた。もう一回ゆっくり言ってもらったが分らない。しまいに「わかりました」と、でたらめに言って、さっさと局を出た。家へ帰ったら何と言おうかと、いろいろ考えた。弟たちは心配そうに「ねっちゃん、出来だて?」と聞くので「あのねえ、出来だと言ったけども、よく聞えないところもあったけども、とりに来てもいいと言ったど、じっちゃにいうから、黙ってれ」と言った。
家に着くと母が「出来だて?」と一ばん先に聞いた。私は思い切って「出来だと」と言ったら、まあよかった。よく聞えだかァ」と言ったが黙って奥へはいって行った。それから五、六日たって取りに行ったが「出来ていなかった」と言って帰って来た。あとで、すっかり母に話したら「まあ」と言ったきり、あきれていた。私たち三人は、いつもあのときのことを思い出して笑っています。
■綴方選評 鈴木三重吉
濱田サキさんの「電話」では、まだ一度も電話というものにかかったことのない濱田さんが、電話でのかけ合いを命ぜられて、うまく出来るかと、びくびくしながらも、一方には好奇心をも持って、郵便局へはいる、あの気持ちがよく活(い)き出ており、事柄(ことがら)としても、おかしみがある。行くまえに、おじいさんが、電話のかけ方をおしえられるところ、行って向こうの電話がどうしても聞きとれないで、やきもきするところも実写的である。ただ、帰っていい加減な報告をしたために、おじいさんかだれかが、むだに先方まで出向かれたのは、サキさんも少し罪である。おどけたといえばそれまでのようなものの、こんな要件なぞにたいしては、もっと、まじめでなければ、はたがめいわくである。(昭和三年七月号掲載)
■あのころの大野 〜綴り方の時代背景〜
昭和3(1928)年当時、普通電話はまだ開通しておらず、一般家庭では郵便局などに置かれた公衆電話からかけるのが通常でした。当時の通話料金は文中にもあるとおり大野から近郊(函館・上磯・江差・大沼など)で十銭(現在のお金に換算すると約160円ほど)でした。 当時の電話は、まず口頭で通信先をつたえた後、交換手が人力で操作して回線をつなぐ人手交換でした(加入者の増加とともに、機械がつなぐ自動交換へと徐々に変わっていきます)。通話時のノイズも大きく男性の声のような低音は聞き取りにくかったため、交換手は声の高い女性が務めることが多かったようです。