どら猫(推奨)
大野小高二   松原 トヨ


 私が学校から帰って、ストーブにあたっていると、間もなく電気がついたので、あわてて水をくみに行こうとすると、母が妹のとみに「油買って来てけれ(くれ〉」と言って、棚からかめを下ろしてやったようであった。井戸に行って来ると、とみが絵本を見て遊んでいたので、もう買って来たのだろうかと思って、「はあ(もう)、買って来たの」と言ったら、母が流し(台所)にいて魚をこしらえていたが、ふりかえって、とみに「まだいがね(行ってない)。あの何ほど(とみのこと)、まあ早ぐ行って来いし(来なさい)」と言って、おこったら、とみは小言を言いながら、私の大きな長靴をはいて出て行った。
 ずいぶんおそいと思って待っていると、ばたらばたらと長靴の音がしてから、妹が戸を半分あけて、「酢ぎゃあ?油げあ(買ってくるのは酢か油か)」と言って、泣きそうな顔をしたので、私は、きっと間違ったと思って、「酢買って来たのげあ(かい)」と聞くと、私のそばにいた愛子が、「とみ、油だよ」と知らせた。妹は何も言わないで、めそめそ泣いて家(うち)に入らないので、母が立って行って、「それ見れ(みろ)、人の言うごと聞かねあで(聞かないで)、行きたぐねあ(行きたくない)、行きたぐねあど思って行くしけあ(行くから)。ざま見れ(ざまぁみろ)」と妹の手から油瓶(かめ)をとって土間(どま)に投げた。父は「入れ、入れ。買って来たものは仕方ねあ(ない)。今度からすぐ使われればいい(すぐにお使いをすればいい」と言ってだました(なだめた)けれども入らないので、母に戸を閉められた。
 私が裏へ杉の葉を取りに行ったついでに、何ほど入れる気になっても(いくら入れようとしても)入らないので、「ええ、あんべ(いいから行こう)、あした(まで)、そこに黙っていだら、どら猫来るべあ(来るぞ)。ほらほら背中さ上った」と言ったら、少し後ろの方を見て、入りたいようにしていたが、引っぱれば、がんばって動かないので、憎らしくて、がん(ごつん)と背中をたたいて家に入った。しばらくたつと、がりがり、さくり(板壁)をかっちゃく(ひっかく)音がしたので、わざと「どら猫来た来た」と(言いながら)、土間へ行くと、妹は「ふふん」と少し笑ってなお強くかっちゃくので、戸をあけて「どら猫、どら猫」と言って、妹の手を引っぱって、むりやりに家に入れたら、むしむしと(黙りこくって)家に上がった。少し知らないふりをして見ていると、もう愛子と二人で玩具(おもちゃ)をやっていた(玩具で遊んでいた)。そのことがあってから、何かすると私たちは、妹を「どら猫、どら猫」と言ったり、「酢、酢」と言ったりします。
大正15年4月号


■ことばの意味
【土間】昔の家の玄関や台所などの屋内で、床板を張らず地面のままにしてあるところ。
【杉の葉】たき付けの代わりに、まきなどの燃料に火をつけるために用い、葉を拾い集めるのは子供たちの役目だった。
【どら猫】盗み食いなどをするふてぶてしい、ずうずうしい猫や野良猫のことだが、子供たちにとっては気性の荒い乱暴な化け猫のような猫のこと。


【横座】一家の主人がすわる席。
※漢字や仮名遣いは現代風に改めています。方言などわかりにくい表現は、かっこ書きで補足しました。


■綴方選評 鈴木三重吉
 松原トヨさんの「どら猫」は、叙写(じょしや)(叙述や描写〉の陰影(いんえい)のくっきりした、たしかな作品です。妹さんが、しぶしぶ使いに出かけて、途中でまた遊んでいたらしく、かなりたってから、のそのそ帰ってきて、戸を半ば開けて「酢ぎゃあ、油げあ」と泣き出しそうな顔をして、聞き返すところだの、お母さまが、どなりつけて油のかめを投げつけられるところだの、お父さんが仲裁し、なだめられるところや、閉め出しをくわされた妹さんが、入れと言っても、意地悪くすねて、外でがりがりと板かべを引っかいたりしている気持ちや、それに対して、トヨさんが、こにくったらしくも思いながら、でも半ば以上、かばい守ってやろうとする気持ちなど、すべての推移がいちいちまざまざと生き動いています。演出的に見て、いかにも実感的で愉快です。「杉の葉」というのは、むろん、たきもの用に蓄えてあるのでしょう。

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