母の死(賞)
大野小高一    爲国 はる


 私が六つになる春のことであった。みんなの家では潤かした(水に浸した_)種籾(たねもみ)を川から上げる時であった。私の家でも種籾を上げて車に積んで来た。私は車に乗ろうとしてぶらさがったが早いか、その車は後ろの方へ引っくり返ったのだからたまらない。種籾は私の胸に二、三俵、どどっと落ちた。車までも腿(もも)の所に上がったので、私は骨違い(脱きゅう)をした。
 あまり苦しがるので、お母さんが青物(あおもの)(野菜_)を売りに行く馬車に乗せて、私を函館の骨接ぎ(接骨する人)の所へ連れて行ってくれた。帰って来る時は、痛みは止まって立つようになったが、十分歩くまでにはならなかった。
 函館から馬車に乗って、久根別の橋の所まで来ると、馬は何を見て驚いたのか、どんどんと走った。走るとお母さんが「はる、しっかり掴(つか)まらないと落ちるよ」と注意するので、私は車の板にしっかり掴まっていた。すると、どうしたはずみか、お母さんがどんと車から落ちた。私はあまりびっくりして、わっと泣いた。それでも馬はどんどん走った。
 しばらく経って、小林さんのお父さんが「何したのだ、何したのだ」と言いながら、馬を掴まえてくれた。小林さんの家の人は、馬に乗って私の家へ知らせに走った。またそのうちに小林さんのお母さんは、私を負ぶって家へ連れて来てくれた。
 私は家に入ってからお母さんのことを心配していると、少し経って、沢山の人が何か担いで、どやどやと入って来た。急いで傍(そば)に行って見ると、それは私のお母さんで、目を閉じて寝てあった。そして額に大きな穴があいてあった。驚いてお父さんの所へ行って「どうしたのだ」と聞くと、お父さんは「お母さんが車から落ちたとき馬に踏まれて死んだのだよ」と知らせた。私はまたお母さんの所へ行って、「お母さん、お母さん」と幾度も呼んだが、もう返事はなかった。それでうんと泣いた。
 今はお父さんと弟と私と三人で寂しく暮らしている。私はお母さんをその時はそんなに思わなかったが、今はときどき思い出すと、涙がひとりでに出て来る。
大正12年1月号


■綴方選評 鈴木三重吉
 為国さんの「母の死」の中のお母さまは本当にお気の毒です。惨死される前後のすべてのいきさつが簡単な叙述でもって、極めて印象強く現れています。ただ、高等科の人としては、ああいう痛ましいお母さんに対する追憶的感情の表出があまりに単純なような気がします。それ以外の、事象の叙写そのものは、申し分なくよく出来ています。

※漢字や仮名遣いは現代風に改めています。

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