馬車にひかれた子供
大野小高二   影井 愛

 丁度(ちょうど)六年生のときであった。或夏(あるなつ)、外で遊んでいると、さっちゃんが飛ぶように下町の方から走って来て、私に「あいちゃん、あのねえ、あの学校の門のところにある山小(やましょう)(屋号)あるべさ、あの曲がり角のどこで、六つだが(か)五つだがなる(かになる)女の子供(が)、馬車にひかれてさ」と言ったので、「嘘(うそ)」と言うと、「ほんとうだ、したら(それなら)行ってみれ」と言ったので、行ってみると、人が黒山のように群がっていた。むりやり人を押し分けて、中に入ってみると、可哀(かわい)そうに女の子が、手に草花を持ったまま、土の上にぐだっとなって(ぐったりとなって)死んでいた。頭はむしろで見えなかった。そばに馬車追い(客や荷物を馬車で運ぶ人)が眼(め)をぎらぎらと光らかして怒ったようにしている。見ていた人は「母(かっ)ちゃたちどうしたんだね」と言うと、子守していた女の子は「畑さいっただんだ」と言った。すると「したらすぐ迎えにやればいんでないがね(いいじゃないか)、来たら、何(なん)ぼ(どんなに)力落すべ」と言ったら、知らせに子供たち(が)たくさん走って行った。そばに見ていた人は「いったいどこやられたんだね」と言うと、馬車追いは「頭やられたんだ」と言った。「どうしてまたひいたんだね」と言うと、馬車追いは「あの四つ角のところに人(が)いるちこと知らねで、ぐいっと曲がったけ(たら)、車の下さ(に)、何(なん)だが引っかかっていたしけ(から)、見だけ(見たら)、これで(この子で)あったんだ、びっくりして抱いてみだけ(みたけれど)、頭(を)やられていたんだものな」と言った。見ている人は又(また)「馬車さ(に)又たいしたざらめ(ざらめ砂糖を)積んであるんでないが」と言うと、「ん。今、ミルク会社さ(に)持って行くべどもって(行こうかと思って)船濱(ふなはま)(船が出入りする浜)さ(に)着いだしけ(たから)取りに行って来たんだ」といった。
 そこへ巡査が三人急いで来た。又その家(うち)のばあさんがはだしになって、息をきらして走って来た。そしていきなり「どれ、とき(ひかれた子供の名前)ば(を)見せろ」と言って、気ちがいのようになって、むしろをはいで一目(ひとめ)見ると、[わあ、どしべ(どうしよう)、胸悪(むねわるい)(胸が悪くなった)」と言って、どんと倒れて気を失ってしまった。見ていた人たちはびっくりして「あれ、どしたんだどしたんだ(どうしたんだどうしたんだ)」と言って、大騒ぎをして、抱いて病院につれて行った。巡査たちは見に来て、人を怒って「どけろどけろ」と言って、一生けんめいに調べていたが、一人が「あ、大変だ、頭の骨が散らばっている」と言って、子供を家に抱いて行かせて、そのあと一間(けん)(約1.82メートル)四方くらいのところに、小さい杭を刺して縄をはった。私は又走って行って、その家の窓から見ると子供の父と母が息をきらして走って来た。その子を見ると、母は気ぬけたようになって(ぼうとなって)、子供の頭を見ながら、何べんもぐるぐる家の中を廻(まわ)っており、父は黙って子供の顔ばかり見ていた。そのうちに人がごやごや中に入ったので、私も入ってみると、どの人の顔を見ても、ふるえたような顔をしていた。巡査が又怒ったので、みんな逃げた。今度は裏へ行ってみると、子守をしていた女の子が泣き声を立てて「さっきまでなんともなく、一人で遊んで、花こ持っていだしけ(いたから)、かもねでおいだけ(ほっておいたら)馬車にひかれたんだ。びっくりして行ってみだけ(みたら)、人たち見であったもんだ」といって、泣いていた。そのうちに、気を失った婆(ばあ)さんが、戸板(雨戸の板)に乗せられて帰って来た。


■綴方選評 鈴木三重吉
  影井愛さんの「馬車にひかれた子供」は、落ち着いた、簡約な叙写でもって、ああした複雑した事象を、よく印象的に写し出しています。子供をひきころした馬方(うまかた)の当惑した、いらだった気持ちや、死んだ子をとりまいて見ている人の言動も、ありありとよくうかんでいます。特に、子供のお母さんが、びっくりして、ぼうとなって、死んだ子供の顔を見ながら、家の中を何べんとなくぐるぐるかけ回るところなどは、いかにも実感が出ていて哀れです、事象をよくつかみ入れた、把握の確かな作品です。

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