犬の親
大野小高一 松田 あつ
二、三軒となりの、四つになる可愛(かわい)い孝(こう)ちゃんが、或朝、小犬を一匹抱いて来て「泰(たい)ちゃん、これさ、まま食わせでおけ(この小犬にご飯を食べさせておいて)」と、庭へ置いて行きました。弟と妹は大喜びです。すぐ皿へご飯を入れて、戸棚をがらがらあけて、何か汁をかけてやるやら、それはそれは大騒ぎをして、おしまいに奥へつれて行って、畳へ放して遊ばせていました。次の朝、孝ちゃんが来て「泰ちゃん、犬よごせでや(犬をかえせよ)」と言うと、弟は「いやだ、けるたべさ(くれるって言ったでしょ)」と泣きながら言って、小犬を抱いてかくれてしまいました。
それから孝ちゃんは毎日のように来たけれど、やらないで(返さないで)、今は自分のもののようになってしまいました。二、三日のうちは親を慕うのか、夜一ぱい(夜通し)、きゃんきゃん泣き通して、めしをやっても食べません。店へ来るお客さんは、「こんな小さいうちに親から放して、よくもまあころころ(まるまると)肥えているね」と感心しない人はありません。一月余りの(一月位たった)今でも、そんなに食べませんけれど、やっぱりころころ肥えているのです。今は私になついて、学校にもかくれて行かなければ、どこまでもどこまでもついてきます。帰るころは、ずっと(いつも)迎えに来ています。
私を見ると喜んで飛んで来て、着物の裾を引っぱったり、すねをなめたりしてそれはそれはうるさいほどです。今は家の人皆に可愛がられ、毎日鬼ごっこのように、はね回っています。ただ不思議なのは、まだ物を殆(ほとん)ど取らないことです。
或夜、私は小用に起きて、戸を開けると、前に黒いものが、もっくり(もくもく)していました。私はびっくりして、あっと声を出すと、その黒い、もくもくしたものが、表の方へ歩いて行きます。不思議に思って、よく見ると、それは大きい一匹の犬でした。すると今度は、その後から、小犬がさもかなしそうな声を立てて、ちょこちょこと追って行ったのです。見ればそれは私の家の小犬なのです。大きい犬は後をふりかえりましたが、やがて孝ちゃんの家の方へ走って行きました。私は小犬を抱き上げました。泣きたいような、何とも言われない心持になりました。今までのやせないのは不思議がないのでした(納得しました)。こうして夜々に親犬は、暖かいふところに抱いて乳を飲ませているのがわかったのです。
今晩こうして私が起きたばかりに、この親と子を離したのだと思うと、なおなお気の毒でした。私は小犬を抱いて親犬の家へ放してやる気になって(かえしてやろうとして)、二、三歩歩き出しましたが、今は夜中であると思ったら急に淋しくなってもどりました。
そして犬箱の中へ綿を厚く敷いて、その中へ入れ、床へ入ったけれど、今のことが目に見 えてなかなか眠られませんでした。
■綴方選評 鈴木三重吉
松田さんの「犬の親」は、親犬が、まいばん、こっそり来て小犬の乳を飲ませていたのだとわかった時の松田さんのかんじんな感激は、その叙出が端的でなく、むしろ混乱した下手な説明の臭味が勝っているために、当然の、直面的な、しみじみした牽引(けんいん)が来ないが、事実だけを取って見ればいかにも涙ぐましい興味ある事実の発見であった。最初の方で、弟さんが、小犬をかえせと言われて「いやだい、くれると言ったじゃないか」と、泣きながら、犬をかかえてかくれこむところなどは、かわいらしく滑稽である。