納豆売り(推奨)
大野小尋五 田山 みつ
この間の晩(ばん)、私の家(うち)で、横山のおど(お父さん)と中谷のもどさんが来て、肉の鍋(なべ)をかけて酒を飲んでおりました。私は奥にいて遊んでいると、「お晩です(こんばんは)」と言って入って来た人があるので、出てみると、冬になると納豆(なっとう)を売りに来る「馬鹿(ばか)納豆屋」といわれている女でした。母がキャベツを切りながら「今頃(いまごろ)何してここさまごづで来てぁ(こんな時間にどうしてここにうろついて来たのだ)」と言うと、「今日(きょう)、納豆早ぐ売れだしきゃ(納豆が早く売れたから)、他の家さ(で)大根の草取りに(の)手伝いして湯さ入ったけぁ(風呂に入ったら)、おそぐなったし、市渡さ行く気(に)なったけども、てぎだしけ(面倒だから)、ここさ寄って来たのせ(ここに寄ったんだ)」と言うと、酒に酔った中谷のもどさんが「何?したしけ泊めでけろてな(だから泊めてくれと言うのか)。おれァ、汝(な)ば(おまえが)大きらいだ。汝えんたやづば(おまえのようなやつを)誰(だれ)も泊めねえだで、ぐぐどけつがれ(すぐに帰れ)」と言った。すると納豆屋は「誰ァ汝さでも泊めでけろつんでもあめし(おまえに泊めてくれと言ってるのでもないのに)、それごそ汝えんたやつの厄介(やっかい)になんてならねぇだ。わがねてば(だめだと言うなら)行ぐし」と言うと、もどさんが、「そら、やっぱり泊めでけろてんだべね、わがね(だめだ)」と怒鳴(どな)った。今度は納豆屋は母の方を向いて「母(かっ)ちゃ、ごろねでもさせでけせえの(ごろ寝だけでもさせてくれないか)」と言った。母は「知らねえでぁ(知らないよ)、おら家(え)のおどから聞いてみねが(うちの父さんに聞いてみな)」と言った。すると父は「わがね、わがね、おら家(え)さ、この人たち皆泊まるんだしけ(泊まるのだから)」と言った。「何して(どうして)この人たち(が)泊まるてが(泊まると言うのか)。わがねてば行くどもせ(行くけれども)。何、食わせでけれ、飲ませでけれ、てもんでもあるめし(食べさせてくれ、飲ませてくれと言うのでもないのに)」
納豆屋は平気で庭に立っていた。すると横山のおどが「ああ、泊まれ、泊まれ。何この家でわがねぇば(ここ家がだめなら)、おら家(え)さつれで行ぐぁ(自分の家に連れて行くから)、上がれ、上がれ」と言った。納豆屋は「お父さん、ほんとうに泊めるがね(泊めてくれるかい)」と父に聞いた。「したら泊まねが(それなら泊まればいいだろう)」と父が言うと、納豆屋は乱気(らんき)に(必死に)なって靴を脱いで上がった。そして座るか座らないのに、横山のおどが「そのかわり歌うたわねば泊めねえぞ」と言うと、「歌だら何ぼでもうたうども(歌ならいくらでも歌うけれど)、そら行げ行げて言うんだば(帰れ帰れと言うなら)、今から行ぐんだぇ(今すぐ行くよ)」と言った。横山のおどが納豆屋に盃(さかずき)をのべた(差し出した)。すると酒を飲んでは肉を食い食いして歌った。母が「あねさん飯(まま)(ご飯)やるか」と言うと、「うん少し貰(もら)うかな」と言ったので、一ぱいやると、もう一ぱい、もう一ぱいと四はいものべた。すると、もどさんが「何でい、汝食わねえ飲まねえてで(と言っていて)、ぐぐどけづがれでぁ。汝いんた者(もん)に用ねえ(おまえのようなやつに用はない)」と言うと、納豆屋が「おやおや、お前ぼだっけ(おまえのことは)一生信用しねぇ」と言って黙(だま)っていた。少したつと父が「ほんに(ほんとうに)行ぐところあるんだら行った方がいいでぁ」と言った。そうしたら納豆屋は怒(おこ)って、「したら、なして(どうして)早くから言ってけねがった(くれなかった?)。何(なん)ぼ(いくら)何(なん)でも、こったらに(こんなに)おそぐなったら、他人だもの気の毒だ」と、ぷんぷん言って立った。もどさんが「おお汝いんたやつ、怒(おこ)ったて何おっかねってな(怒ってもなにも怖くない)、ぐぐど行げ」と言った。納豆屋は、小言を言いながら出た。
その後(あと)から私も出てみると、大野方(現在の北斗市本町の方向)から木炭つけた(木炭を積んだ)馬車が来た。「あんさん、乗せでけせでぁ(にいさん、乗せてくれないか)」と言うと、馬車追(ばしゃお)いは「おそぐ行ぐんだしけわがねぃ(遅くなってから行くのだからだめだ)」と言って馬車を走らした。納豆屋は「それでもいいしけ(それでもいいから)、乗せでけれ(乗せてくれ)、乗せでけれ」と言いながら、馬車の後から走って行った。
昭和2年3月号
■ことばの意味
【馬車追い】馬車・馬橇(そり)を使って運搬を業とした者のこと。
※漢字や仮名遣いは現代風に改めています。方言などわかりにくい表現は、かっこ書きで補足しました。
■綴方選評 鈴木三重吉
五年の田山さんの「納豆売り」は、分かりにくい方言が多くて、ちょっと読みづらいが、ともかく少しうす馬鹿らしい物売りの女そのものが、哀れっぽく立体的によく描けている。そのほかのすべての人々の言動も気分の動きも、それぞれに躍出(やくしゅつ)している。人間描写のすぐれた一例として光っている、哀感(あいかん)的な作品である。