父(とっ)ちゃ
大野小高二   安保 さき


 「さき、さき」と母の呼ぶ声がするので、「何(なに)した」と返事すると、母が、八軒家(はちけんや・現在の稲里地区)の婆(ばば)来たから、じっとこっちの方さ(へ)寄って、皆押し付かって寝べし(身を寄せ合って寝ましょう)」と言ったので、そうして二人で寝ました。
 寝てまもなく、家(うち)の戸をがらりと開けて「今晩(こんばん)は」と言って入って来た。すると母が「また父ちゃ(父さん)酔っぱらって来たね」と言うた。すると父ちゃが「今糞(くそ)ふってくる(大便してくる)」と言ってマントを脱いで、「はあ酔っぱらった」と言って便所に行った。そして便所にいて歌をうたうやら、「うまいうまい」とはやすやら、そばに誰(だれ)かいるようである。すると母が「父ちゃば呼ばれ(父さんを呼びなさい)。呼ばないば(と)朝までああしてるから」と言ったので、私が「父ちゃ、父ちゃ」と呼ぶと、「何こいだ(どうした)と言って出て、よっちゃ、くっちゃと(よろよろと)壁板にぶつかったり、のめったり(倒れそうになったり)してやっと家に入って来た。そうして、「殿様(とのさま)のお帰りでござるのに寝るって話があるか」と言って奥に入って来た。また「殿様のお帰りでござる、でござるわ。ござる、ござる、ござるわ」と言って母の頭を突(つ)つく。私とお祖母(ばあ)さんと「母(かっ)ちゃ、殿様のお帰りだどさ」と言って腹も何も痛くなるほど笑った。
 今度はどてら逆(さか)さに着て、足を袖に通して「殿様のお帰りでござるのに寝るって話があるか」と言って、また母の頭を突つく。母が「あーあ痛い、どてら逆さに着て、それ」と言うと、「逆さまもくそもあったもんでない」と言って戸の方にばたりと転んで行ったりして寝ない。「皆わらさど(子どもたち)起こしてしまう。早く寝たらいかべ(寝たらいいでしょう)」と言うと、「八軒のばば(婆)来てあたべ(婆さんが来ていただろう)、おら(俺)三浦にいたきゃ(三浦さんのところにいたら)、俺家(うち)さ来るてあった(家に来ると言っていた)。来たべ(来ただろう)」と言うても母が知らんふりをしていると、「人、馬鹿(ばか)にしてる、返事もしないで」と言うた。母が「来なかったよ」と言うと、「そうか、ずるい婆だなあ」と、いるのも知らないで言う。
 おしまいには、枕(まくら)の方に足を横にして、足の方に頭をやって寝て歌をうたっている。その時、外を、ぶうっと自動車が通った。すると今度は、さかんに自動車の歌をうたっていた。私はぼんやり聞きながら、いつしか眠ってしまった。

大正十三年五月号


■ことばの意味
【マント】衣服の上から羽織って着る、袖なしのゆったりした上着。外套。
【どてら】保温・防寒用として綿を入れた広袖の着物。防寒・寝具用。主に男性が着る。


※漢字や仮名遣いは現代風に改めています。方言などわかりにくい表現は、かっこ書きで補足しました。


■綴方選評 鈴木三重吉
 高二年(現在の中学二年)の安保さんの「父ちゃ」は、事象(現実の出来事)の把握が希薄(きはく)であり、書き方がたどたどしいところが目につきます。ただ、上年級のわりに、表現にこましゃくれたところがなく、どこまでもうぶうぶしている素朴なところをとったのです。酔っぱらった人を、ともかく、写し生かしています。お婆(ばあ)さんが来ていられるのを知らないで「ずるい婆(ばば)だなあ」と悪口を言うところでは、私までもひやりとしました。まあ、あれだけの悪口ですんだのでよかったわけでした。

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