山の家(うち)(推奨)
大野小尋六   釜澤 みつ


 私は小さい時から、両親と別れて、祖父の家(うち)で暮らしていた。去年の田植え休みのときであった。ガロー鉱山の父のところへ着物を買ってくれと手紙をやると、母から「父が怪我(けが)をして函館の横山病院へ行くところだから、休み中しんぼうせよ」という手紙がきた。二日ばかりして爺(じい)ちゃんが「み(みつ)、ガローさへ行って子守でもして来い」と言って五円札を出したから、それを持って翌日朝早く握り飯(めし)を二つ持って、一番汽車(きしゃ)で急いで行った。
 上磯の会社から鉱山の電車へ乗って一時間ばかりも行くと、終点だったので、電車を降りると、走って家へ行った。すると家の中には、弟たちが二人いて「父(とう)ちゃん、母(かあ)ちゃん、おいおい」と言って泣いていた。座敷の隅にお膳(ぜん)があって、茶碗(ちゃわん)や飯粒(めしつぶ)が、そっちこっちに散らばっていた。私が行くと、二人はなおも声高く泣くので、「母ちゃんどこさ(へ)行ったの?」と聞くと、「知らね(知らない)、おいおい」と泣くので、小さい方をおぶって、大きいほうの手を引いて、会社の方へ行くと「み」と、どこかで呼ぶので、見ると、右手の高いがけの上で母が石を落としていたから「母ちゃん」と言って、弟の手をはなして走っていくと、「母ちゃんは、こうして稼いでいるんだよ」と言ったので、私は知らないまに(知らず知らずに)、涙がながれてきた。私は母の顔を見て「母ちゃん、帰るべ帰るべ(帰ろう帰ろう)」と言うと、母は「帰れば今日食(きょうく)う米(こめ)買われないし、父ちゃんにも送ってやること出来(でき)ねんだ」と言った。私は腰に結んでいた風呂敷(ふろしき)をほどいて、爺ちゃんのよこした五円札を母に渡して、家に帰った。
 私はわらびをとって売るつもりで、縄と風呂敷を持って、二人の弟をつれて、村の山へ行ったが、わらびは一本もなかった。すると弟が「おど居てあった山にだらある(父さんがいた山にならある)」と言ったので、そっちへ行くと、たくさんあった。私は弟にも背負(せお)わせ、自分でも少し持って家に来たが、まだ母は帰っていなかった。私は二人の弟をつれて、わらびを売りに行ったが、或(ある)家の戸口(とぐち)まで行ったが恥ずかしくて入れないので、小さい弟に「お前入れ」と言うと、「いらねいや、姉(ねね)入れ」と言ったら、大きい方の弟が「おら行って売って来る」と言って中へ入った。私は少しはなれてまっていると、弟は銭(ぜに)を握って走って来た。私は面白(おもしろ)くなって、四、五軒の家で皆売ってしまった。帰って来たら母は御飯(ごはん)をたいていた。
昭和二年七月号


■ことばの意味
【田植え休み】農村では、田植えが忙しい時期に、手伝いのために学校が休みになった。


※漢字や仮名遣いは現代風に改めています。方言などわかりにくい表現は、かっこ書きで補足しました。


■綴方選評 鈴木三重吉
 釜澤みつさんの「山の家」は、一行一行がひしひしと胸を打って、しみじみと痛ましく、涙ぐるしくさえなって来ます。叙写(じょしゃ)はたどたどしたものですが、ああした事実と、それを表出する真実、素朴な態度との牽引(けんいん)です。お父さんが入院されたあとの山の家へ出かけると、お母さんもおられなくて、二人の弟さんが泣いている。茶椀(ちゃわん)や飯粒(めしつぶ)がちらばっている光景や、みつさんが泣いている二人をおぶったり、手を引いたりして、お母さんを探しに行くと、がけの上で、お母さんが石を落としておられる。それを見つけて、思わず弟さんの手をはなして走っていくところ、そこでのお母さんとの対話、お母さんの手助けに、わらびをとって売ろうとする気持ち、やっととって売りに行くところなどは、たったあれだけの描写にもかかわらず、おのおのの場面の実感がまざまざと生き踊っていて、この上なく哀れです。はじめはわらびを買ってくれと言うのが恥ずかしくて弟さんを入らせたが、売れるとおもしろくなって、四、五軒まわって、すっかり売ってしまったという、その喜びさえも哀れに痛々しい気がします。しかし考え直すと、ああした中に立っても、これだけの純情と純感に光っているみつさんは、どんな表面的に幸福な子供よりも、もっともっと深く神から恵まれている貴(とうと)い子です。

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