史跡保護の立場からの要望書
 大野町文化財保護研究会 史跡保護の立場からの要望書 文化財保護の間口は広く、町内に残存する農具及び民具の散逸を防止することが急務と思料し、町当局並びに教育委員会事務局の了解をもとに昨年11月16日とりあえず標記の会を結成、町内の地域ごとに役員を設置して保護する道を講じました。その結果を町当局へお話し申し上げましたところ、吉川町長におかれてはこれを諒とせられ、近い将来陳列する会館の構想のあることを知らさて下さいました。 われわれ役員としても満足の上、次会1月の例会に地区役員にもこのことを知らせるとともに、いままで収集した農具・民具の類を大野中学校の厚意により、同校の物置に保管させていただき、近くまた新たに収集に乗り出す手順と相成っております。
 それはそれとして、町内の史跡として重要なものがおよそ3ヶ所あり、年代の古いものから申し上げて江差山道の鉛山、おなじく下二股川河岸の台場山、一本木の三角測量の基標がそれであります。 一については文政年間(1818〜29)大野の名主忠兵衛ほかの人が採掘いたしましたが、幕府によって中止を命ぜられ、安政以後は箱館奉行所の直営となっております。銀・銅のほか、鉛がおもなものとなっており、製錬所もこの地にありました。鉱夫は秋田阿仁(あに)院内(いんない)の人が多く、一度に多人数が坑道の下敷になったといわれ、墓は60基ぐらいあったといわれておりますが、山のふもとだけは調査済みで、一段高い台地にあるという箇所は未調査であり、融雪をまって本年中調査の所存であります。光明寺の過去帖によりますと、身分のあるらしい婦人もこの地で死亡しております。昭和の初めごろ、日蓮宗の婦人方の供養があったと聞いており、昔精練所があったと思われる箇所に小さなほこらがあります。
 史跡の二は下二股川河岸の台場山で、箱館戦争己巳(きし)の役(明治二年)に、新選組の土方歳三が三百の兵を率いて防備したところ、民兵も相当数含まれており、大野の青年で名前のわかっている人も二人ほどおります。元年の戊辰戦から引き続き、星恂太郎に率いられた仙台兵300人が大野に越年しており、官軍が攻めてくることは必須であり、自分たちが去年上陸した仁山峠の方向からくるか、それともこの江差山道かということは、榎本軍にとって最大の関心事、矢不来上磯方面からの海岸線をも含め、防備おさおさ怠りなく、江差山道の場合、この山の防備にあたったことは、地形研究がよくなされていたことがわかります。
  4月12日から29日まで18日間、薩摩藩をはじめ6藩兵を、二股川の先方に釘付けにしたものであり24日の官軍総攻撃は、期間中の最大の激戦でしたが、この日も官軍は突破することができないで退却しております。下二股のこの地は、台場山の鞍部に向かって道路がつけられており、大野川の本流を渡って右は毛無山、左の支流下二股川は断崖絶壁、どうしても道路を突破するよりほかがなく、この地形をみて、道路の両側・台場山に陣をとったもの、いま台場山の高地に立って西方を観望すると、そのことがよくわかのであります。
 己巳戦は、矢不来での合戦は関ヶ原となっており、海岸筋の榎本軍の敗退後は、官軍の攻撃を腹背に受けることが明らかになったので、土方軍はここを捨てて退却したのでありました。 大正11年北海道史で有名な河野常吉先生が台場山を調査にきて、「著名な戦場なるをもって、保存法によって保存すべし」との報告書を道に提出しており、昭和40年9月新北海道史編集長高倉新一郎先生以下5名は、道南12館(たて)の調査にきて、志苔館(しのりたて)を皮きりに上ノ国を最後に江差山道を通過、函館から札幌に向かう際、役場総務課、教委を主に筆者も随行、下二股の古戦場に一行を迎えました。この際も高倉先生は口をきわめて、この地の顕彰方の言葉を残して行かれました。
 教育委員会もそれ以来真剣に取り組まれ、書類でもってこの地の保存方を提出しておりました。民有地、国有地がいりこんでおり、これを明確に知ることが先決で、しばらく放置の格好でありましたところ、国有地は財務局財務部の管轄下となっているとのことで、昨年財務部みずからが大野の教委事務局へきて、国有地払い下げうんぬんのことから局面が新段階を見るに至り、そのようなとき前記文化財保護の会が発足いたしましたので、旧臘7日産業課課長、係長、教委次長ほか2名、文化財2名計7名による総合現地調査が正味2時間にわたって行われ、台場山第一の峯、第二の峯、第三の峯を踏査、塹壕がおよそ300メートルの間にあることが確認された次第であり、いままで個別の調査は行われましたが、この日の調査ほど収穫のあった調査はいまだかつてなかったことをお知らせしとうございます。
  元来台場山は地元よりも他市町村または都府の人びとが関心をもち、筆者においては函館図書館主催道南の歴史を調べる会の人びとを2回、都府県の人びとを3回案内しており、そのたびごとにこの山ですとただゆびさしするだけでのぼることのできないことを恥ずかしく思ってまいりました。しかしいまやようやく台場山も、日を見ることが近くなったと思われ、いまの段階は産業課が先頭となっている次第であります。
 史跡の三は一本木の三角測量の基標でありますが、その存在については町史発刊以前からわかっておりましたので若干書いておりますけれども、全く皮相より知らなかったものでありました。昭和45年10月27日北海道開拓記念館準備委員会の人びとを主に、国土地理院北海道陸地測量部、函館高等工業番匠助教授など一行30名近くの人が一本木へきて、あの基標を発掘調査することとなり、教育委員会はこれが案内と世話役を引き受けることと相成りました。そのときは町史も製本が終わって現物が到着しておりましたので、筆者も教育委員会の通知に接し、幸いにも発掘に参加することができました。 石は1箇でないことは私どもも承知しておりましたが、掘り終わった石は実に7箇、三段目には4箇のの石が並立し観音開きの板のとびらを開くと4行ほどの文字が刻まれており、最後に建立者の名前が刻まれておりました。その人こそ北海道史としても函館としても実に有名な人であり、また大野にとっても縁故なしということのできない人でありました。筆者としてもこの日参画できたことをいまだにしあわせであったと思っております。しかも一方亀田市に建てられたものはいま原形のままでなく、それだけに一本木の基標は稀少価値に富むもの、新北海道史第三巻通説二の444ページから448ページまでは、大野町が建てた標柱の写真入りで大きく、これを取り扱っております。
 道の文化財の係では筆者に対してあの一角およそ2畝弱を町として確保して、大野の文化財として、後世に残すよう、と強く要請しております。一本木部落は近年神社社殿及び境内が一新されており、杉林うしろの一角も、あのように草ぼうぼうとしておかないで、基標を中心に然るべき施設をほどこされますよう、文化財保護の立場から切にお願いする次第であります。


 昭和48年2月16日
大野町長 吉川清之助殿
大野町議会議長 鍵谷毅殿
大野町文化財保護研究会 花巻源一郎
同 竹部三郎
同 飯田吉次郎


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