大野町文化財保護委員会町条例設定の要望について
 文化の二字は、歴史の流れの積みかさねにほかならなく、文化財なる三字は、その文化遺産であることを堅く信じて疑わないものであります。ひるがえって大野村誕生の歴史については、亀田・函館・松前・上ノ国・江差につぐものであることは、例証を挙げることができますが、ただひとつを申し上げますと、松前藩が宗谷から藩士としてカラフトへ渡らしめ、これを検分せしめたのは第七代藩主公広であり、時代は寛永一二(一六三五)年となっておりますが、この時佐藤加茂左衛門・蛎崎蔵人の両藩士が、大野に宿泊しており、どうしても宿泊しなければならないのは、大野であったのです。 確かな証拠があるわけではありませんが、最初の二軒ないし三軒の人びとは、松前藩から差し向けられた人びとではないかと思われるふしぶしがあり、何かのとがで、越山を命ずると称して、大野に差し向けられている人が、一人や二人でないのであります。
 大日社と称する神社もまた、どうも松前藩の意向によるものではないかという筋合いが多分にあり、第一祭神は大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)と読み、とても村びとが祭ったとは思われなく、天照大神の別名なのであります。現在の意冨比神社は延喜式全国二八六一社の中にただ一社ある神社名であり、どこかというに船橋であり、この式内社の名を知ってるのは、会津三百石小野高徳その人でなければなかったはずであり、いまひとつ不思議なことは松前奉行村垣淡路守定行が、文化七(一八五二)年大日社造営のために、御普掛峯尾平衛なる人を差し向け再建せしめていることであります。
  この村垣淡路守定行の孫が、後幕時代の箱館奉行村垣淡路守範正であり、その公務日記なるものを見ますと、大野に幾回も来ていることが記載されており、高田万次郎・内田藤平衛などの人びとが、呼び出されて償詞を受けており、官民一体の努力はついに功を奏し、安政四(一八五七)年、田租米七一石八斗一升六合が初めて津軽の海を渡り、伊勢両宮・宮中・東照宮へ奉献されており、蝦夷地最初の米は、大野が大部分を占めているのであります。
 しかしながら明治維新前の大野の本来は、米ではなくて宿場マチでありました。現在の十字街には本陣をはじめもろもろの宿屋が十軒近くあり、上町・下町とも家が接続しており、多くの家は馬を飼育している駄送業でありました。それが明治を境にして農村に切換えられたのでありますが、多くの農村は、たんぼの中に家があることに反して、たんぼが遠くにあることは大野の特色であります。信用組合が設立され、農業試験場ができるまでの大野はまったく先人の苦労のたまものでありました。そして、明治三三(一九〇〇)年、ついに大野ほか十五町村が選ばれて、一級町村となったものであり、大野が真っ先に選ばれたことを、大野の人は忘れてはなりません。
 今町内にあるものは、一木一草に至るまで文化遺産であります。不肖が教育長時代に五年連続文化財保護条例制定をお願いしたことを農業委員会事務局長の長田良三さんがよくご承知です。あれから二〇年、渡島管内に町村条例のないのは、大野ほか三か町村であります。他はいざ知らずかくかくたる歴史の大野に、町条例がいまだにないということは、なんたる始末でありましょうか。これ以上申し上げません。貴台及び皆様のメンバーにおいて、吉川町長の置きみやげとして、速やかに町条例制定にご尽力下さいますよう要望申し上げます。


  昭和五十三年四月二一日
大野町教育委員会委員長 長尾保長殿
大野町文化財保護研究会長 飯田吉次郎

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