箱館戦争 北の激戦地
二股口の戦いで新政府軍の猛攻を防いだ 土方歳三隊
箱館戦争と大野

 明治元年(一八六八)から翌二年にかけて、旧幕府を脱走した榎本軍と新政府軍が、箱館 を中心に道南各地で展開した戦いである。 明治元年八月十九日の夜半、奥羽列藩同盟の再三の要請にこたえ、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は開陽丸を旗艦とし、八隻の艦船に二千余名の将兵を分乗させて品川を脱走し仙台 に向ったが、時期すでに遅く、奥羽同盟は崩壊していたため、蝦夷地開拓によって旧徳川家臣の救済をはかるべく、北関東・東北各地を転戦していた旧幕府陸軍も収容して仙台を出帆した。

 同年十月二十日、開港場の箱館を避けて鷲ノ木(森町)に上陸した榎本軍は、川汲と大野方面の二手に分かれて進軍した。大野方面へ進軍した隊は、箱館府派遣の守備兵と峠下・七重・大野などで戦闘になったが、戦闘に不慣れで装備の劣った守備兵は連戦連敗で、箱館府知事清水谷公考は青森へ逃れた。蝦夷地に残った松前藩も土方歳三率いる一隊に松前・江差を制圧され、藩主は小舟で青森に逃れたため、蝦夷地は榎本軍の手中に帰した。同年十二月中旬、士官以上の投票で首脳人事を決することとなり、榎本武揚を総裁、松平太郎を副総裁に選び、五稜郭を本拠に仮政権を樹立した。一方、榎本武揚は新政府へ、自国民の安全確認のため箱館にきた英仏軍艦の船将を通じて、蝦夷地を徳川家の封土とするように嘆願した。しかし、新政府は、この嘆願を拒否すると同時に、同二年三月、征討軍を派遣した。この情報をキャッチした榎本軍は、開陽丸を失って低下した海軍力挽回のため、三月二十五日、南部(現岩手県)宮古湾へ甲鉄艦奪回戦を敢行したが失敗した。四月九日、新政府軍は乙部に上陸、十七日には松前を奪回、二十九日に上磯の矢不来を攻略した。

 新政府軍は同年五月十一日、箱館山背面からの奇襲作戦によって箱館市街地を奪回、榎本軍に降伏勧告交渉に入った。 十五日に兵糧尽きた弁天台場が降伏、十六日には降伏を拒否した千代ケ岡台場を攻略し、十七日に五稜郭も降伏を衆議一決し、十八日に開城となって、箱館戦争は幕を閉じた。 町内の意冨比神社前や下二股でも激しい戦闘が行われ、郷土の人々も戦いに参加させられた。 品川沖を脱走した榎本軍と、明治新政府軍の命を受けた福山藩・大野藩の将兵が、明治元年(一八六八)十月、郷土を舞台に繰り広げた戦いである。 明治元年十月二十日、榎本軍は鷲ノ木(森町)に上陸、少し遅れて出発した新政府軍も同じ日に函館に上陸し、対岸の弘前藩・地元の松前藩と合流した。 大鳥圭介率いる榎本軍は、鷲ノ木から箱館に向かい、一方、大野藩を主流に新政府軍は、千代田村を経由してそれを迎え撃つことになり、大日社前(意冨比神社)の辺りで激突となった。戦いは戦術も優れ、気象条件でも優位に立った榎本軍の勝利に終わったが、両軍に多数の死傷者を出す激しい戦いであった。 意冨比神社境内の樹木の幹に当時の弾痕が残っており、戦いの激しさを物語っている。戦死者を葬った墓が町内にある。

 明治元年(一八六八)、榎本軍の星恂太郎が率いる仙台の額兵隊三百名が大野の民家に分宿し年を越した。額兵隊は、洋式訓練を身につけた榎本軍の精鋭である。鷲ノ木に上陸した額兵隊は、川汲山道を越えて五稜郭に入城した。休む間もなく西部へ進軍し、十一月福山を落し入れ、さらに江差へ遠征して、十二月には大野に入って越年となった。 大野村の下町は、先の戦いで焼失しており、仙台兵をどのように収容したかは定かではないが、厳しい蝦夷地の真冬であり、民家に分宿する以外にはなかったと思われる。 大野は鷲ノ木、箱館、江差とを結ぶ交通の要衝であり、新政府軍の襲来に備えての越年であった。 特に、新政府軍の江差山道通過は必至であろうという推測から、防備のために各所に台場を構築している。 明治二年(一八六九)四月九日と十二日、長州・福山・津軽・徳山・大野・松前の六藩の兵は江差に上陸し、箱館に向かった。@福山を経由して海岸沿いに、A間道を通過して木古内を経て、B江差山道を経て―箱館にという三コースに分かれての進攻である。

 下二股の戦いとなったのは、Bの江差山道を経て箱館に向った長州藩を中核にした新政府軍と、二股口を死守しようとする土方歳三率いる榎本軍である。 戦場となった下二股は、大野町市渡の分岐点から国道227号沿いに十・二キロメートルの地点で、大野川に合流する沢があり、その左側に標高二〇〇メートルに満たない小山・ 台場山である。 土方歳三は、その台場山の山頂に砲台を築き、前面と左右に散兵壕を掘って待ち構え戦闘の火ぶたがきられた。この下二股の戦いは、箱館戦争の中でも最大の激戦で、銃身が熱して持てず川の水で鉄砲を冷やしながら発砲したという激しい戦いであった。しかし、圧倒的兵力を誇った新政府軍は、二度にわたる総攻撃でも陥落することができず退却した。四月二十九日の矢不来の決戦で榎本軍が敗退し、下二股の土方軍は背後から攻撃を受ける状況になったので、十八日間戦った山を撤退し、この戦いの幕は閉じたのである。 蝦夷地に新天地を築こうとする榎本軍と、それを反逆とみなす新政府軍の戦いであったが、戦場となった郷土は、戦争に巻き込まれ大きな被害を受けた。 明治元年(一八六八)の大日社前の戦いでは、大鳥軍の放った大砲の弾が「夲(だいじゅう)」という家印の草屋根で破裂し、折からの強北風にあおられて西下町十数軒の民家が総なめになった。


下二股口古戦場(台場山)見取り図
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 一方、久根別へ退陣した新政府軍は、退却の途中で千代田や一本木の人家に火を放つなど、郷土の各地で大事な財産が灰になっている。 仙台の額兵隊三百名が、郷土で越年したことは、先の大日社前の戦いで多くの民家が焼失した後だけに、その対応は大変だったことだろう。高級幹部は、市渡神社の拝殿や小川の 名主であった沢村家で地図を広げて作戦を練ったと伝えられている。 江差山道を通過する新政府軍を阻止するため、江差山道入口の焔硝倉の建築やベコタテ山の散兵壕・ハナコクリの五稜台場・突出ノ沢の方形台場・台場山の陣地の構築など、雪中の作業にも郷土の農民が多数駆り出されたものと思われる。 郷土では、戦いに備えて多くの壮丁が民兵として徴発され、土方歳三のもとで訓練され、二股の戦いで活躍した。民兵として徴集したのは榎本軍に限らず新政府軍も行っており、身内同士が敵味方となって戦ったという悲劇も伝えられている。 戦争が終わって、これまで宿野辺・鷲ノ木までが市渡となっていた地域が切り取られてしまったのは、市渡村が榎本軍に協力したことと無関係ではあるまい。箱館戦争はこのように郷土に大きな傷跡を残して終わった。

− 新大野町史第五章 近代 第一節 箱館戦争と大野より −
箱館戦争の史跡
◆本町地区
箱館戦争と意富比神社の戦い
 明治元年(1868)旧10月20日旧幕府軍は、森町(鷲ノ木)に上陸し、本隊は箱館(現函館)に向かい、分隊は峠下コースを進軍し、10月24日午前7時頃、風雪の中、今の峠下から五稜郭へ進軍のため向かおうとする榎本軍大鳥圭介部隊と阻もうとする官軍藩兵とが市渡で遭遇戦になり意富比神社境内を中心に戦闘になり白兵戦になりました。
 しかし、作戦に長ける榎本軍には官軍は相手でなく、敗走する官軍を南大野まで追撃し、約1時間の戦いであった。この間大鳥部隊の放った大砲の弾が、今の十字街や下町あたりの家にあたってもえあがり、強い北風にあおられて十数軒が焼失しました。
 村民は銃声や火災に逃げまどった。両軍の死傷者はかなりの数であっただろう。官軍の墓だけでも10以上になっている。
 なお、意富比神社のイチイの木に弾痕がある。
意冨比(おおひ)神社境内での戦いの跡
箱館戦争戦死者の墓
 光明寺の境内に箱館戦争官軍の墓が四基と榎本軍の墓が一基残っている。官軍の四基は、備後福山藩、越前大野藩、松前三藩の戦 死者で一列に南面して並んでいる。
 矢不来(上磯町)より参戦の榎本軍衝鋒隊副隊長の永井蠖伸斎と網代清四郎の墓は、大きな自然石に名が並んで刻まれていて、二 人とも明治2年(1869年)4月29日に戦死している。
 光明寺の過去帳「蠖伸斎墓石由来記」によれば、明治34年(1901年)旧暦3月23日に本堂の南面のところに国下大雲住職と当 時出陣して存命中の岡田善治が発起人となって供養し、自然石を墓石として建てたという。
光明寺 新政府軍の墓
光明寺 榎本軍永井蠖伸斎と網代清四郎の墓
◆南大野地区
新政府軍の墓・無縁墓地
 明治元年10月24日の早朝に、ここ大野を戦場として戦死した福山藩の戦死者8名中、千賀猪三郎と松本喜多治の両藩士の墓がこの地 に残っており、他の藩士の墓は大野町本町の光明寺に4名の墓があり、他の2名の藩士については未調査であるが、無縁仏としてここ に葬られているともいわれている。この無縁墓地は、大野唯一のもので、行路病者も葬られているという。




新政府軍の墓・無縁墓地
◆市渡地区
石鳥居と稲荷神社・川濯(かわすそ)神社
 大鳥居は花こう岩で造られ安政6年(1859)に建てられたもので、花こう岩は北陸地方の産地である程度加工され、北前船(弁財船)の海路で運ばれて有川(七重浜)に荷揚げされたものです。
 信仰心の厚い集落民の献金と奉仕によって建立されたものであるが、支柱に世話人、伝益・賀兵衛・市蔵・当村若者中と彫られて いる。伝益は鍼師、賀兵衛は初代の市渡副戸長となった人ですが、市蔵については不明である。
 前方奥にある社殿が稲荷神社で、平成2年(1990)8月20日国道拡幅工事に伴い旧稲荷神社、旧川濯神社が統合新築され、祭神 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・倭姫命(やまとひめのみこと)・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の三柱を合祀 、五穀豊穣・家内安全・交通安全・夫婦和合の神・火の神・山の神等としてあがめられている。旧両社の創世年は不詳であるが、稲荷社は享保3年(1718)、川濯社は文化元年(1840)再建との記録がある。また、旧稲荷神社は明治元年(1868)〜同2年の箱館戦争では、榎本軍の作戦本部として使用された。
 毎年8月20日例大祭が盛大に執り行われている。
土方隊作戦会議の市渡神社
箱館戦争焔硝倉の沢
 明治元年(1868)の冬に、大野村に榎本軍の額兵隊隊長 星恂太郎以下300人が官軍との戦いに備えて陣地を構築した。翌年の春には官軍との交戦は必至であり、江差から上陸すれば江差山道の通過は当然であったと思われた。そのためここに陣を構えたのは、見通しが良いなど地理的条件を考慮して焔硝倉(火薬庫)をこの沢においたものと考えられる。この付近の左右の峰地帯には散兵壕数十個があり、突出しの沢には榎本軍の方形台場がある。
 当町に住んでいる古老は「火薬は赤ダモの木の箱で運んだそうだ」と語っており、この沢にある大きな赤ダモの木の根元に焼けこげた跡が残っている。
 今でもこの辺の沢を焔硝倉の沢と言っている。
箱館戦争焔硝倉の沢
箱館戦争無名戦死者の墓
 向野(小川「こがわ」地区)、澤村家の水田の畦に、明治元年(1868)から翌2年にかけて繰り広げられた箱館戦争の犠牲者の墓があります。当時、市渡村の名主は沢村久之丞で、箱館戦争勃発と同時に榎本軍が陣を構えるなど、いや応なしに戦争の渦中に巻き込まれ、名主として大変苦労したといいます。
 澤村家は間口が10間(約18メートル)もあり、家の半分は土間だったため、明治元年の冬から翌2年の春にかけて、榎本軍が下二股口(台場山)などに陣地を構築した際は、作戦本部に充てられました。
  土間には銃が4,5丁ずつ組んで立てられ、澤村家は幹部の宿舎にもなったそう。 この一帯は、澤村家の本家や分家が集まる篤農家ばかりで、水田の畦に直径80センチほどの自然石を置いて、「箱館戦争無名戦士の墓」としてまつっています。
 毎年8月13日には、一族そろって供養を続けていますが、この戦死者が新政府軍のものか榎本軍のものかははっきりしていません。
箱館戦争無名戦死者の墓
土方隊野戦病院跡地
◆中山地区
箱館戦争二股口の戦い
 明治元年(1868)10月、榎本武揚率いる艦隊は鷲ノ木に上陸した。
 新政府軍に勝利した榎本政権は五稜郭に樹立した。
 奪回をめざす新政府軍は江差方面から上陸し江差山道を通過するのは十分想定された。従って榎本軍は山沿いに散兵壕や台場を築 き、下二股川の崖をはさんで反攻を防ぐ作戦に出た。
 新政府軍は翌2年(1869)、予想通り乙部・江差から上陸した約600人が山道を通った。
 一方榎本軍の土方歳三を隊長とする約300人は台場山へ砲台も築き二股口で待ち構えていた。4月13日(旧暦)、新政府軍は対 岸にたどりつき戦闘が開始された。川を渡り天然の要塞である二股口を突破しようと何度も試みるが土方隊の発砲で押し返された。
 海岸線矢不来の戦いで榎本軍が敗れたため、土方隊は5月1日、陣地を放棄して五稜郭方面へ退却した。
二股口古戦場
江差山道通行の難所と二股口古戦場跡
 この場所は、昔一番古い道路のあった所で、江差山道の通行の難所と言われたところです。下方の川には大野川の支流下二股川が あります。
 箱館戦争の明治2年の戦いでは、榎本軍が各要所にざんごうを掘って土方歳三を隊長とする約300人の兵を率い頑強に官軍の前進を阻止した所であります。海岸戦の矢不来戦では榎本軍が退却したので、土方軍も撤退したものですが、そうでなかったら二股戦 はまだまだ長引いたものと思われる。
 明治3年8月4日には、後に京都東本願寺22代法主となった大谷光瑩一行が江差までおもむくために、この沢を越した所でもあ り、江差のニシン漁華やかな時代には、大勢の人々が往来したところの道路でもありました。
 また、ここの史跡説明板の隣に土方歳三が台場山で詠んだ句の説明板がある。そこには次のように書かれている。
シノピリカ いづこを見ても 蝦夷の月
                 土方歳三
 シノピリカとは、大変良いという意味のアイヌ語である。「蝦夷の月はどこから見ても本当に美しく、この台場からの眺めはまた格別だ」と、この台場山でのいずれかの戦いの前の、束の間の休息時に詠んだのであろう。辺境の地に身を置く感慨と、激戦という嵐の前の静けさが伝わる一句である。
台場山塹壕跡
新政府軍陣地跡
新政府軍 佐藤安之助墓
 箱館戦争の台場山を中心とした戦いは、明治2年(1869)4月13日から18日間にわたり乙部に上陸した新政府軍約600人と榎本軍約300人が、この台場山周辺で大激戦となり、新政府軍軍監駒井正五郎が戦死した。
 この墓はその激戦で戦死した佐藤安之助のものである。
 墓には「佐藤安之助鹿児島藩従者・明治2年4月24日」と刻まれているが、「弘前藩記事・戦死履歴」には「文政10年8月18日生・鹿児島藩伊集院宗次郎軍夫」、開拓使編「戦死人墳墓明細履歴書」に「42歳陸奥国津軽郡駒越村」とあるように、その履歴は、ほぼ明らかにされている。
 駒越村とは岩木山の山麓の町で現在の岩木町である。
 明治から大正時代、この場所にヤマチョウ(屋号)前田吉五郎が旅館を開業していたが、それを引き継いだ大野町市渡の横山重雄さんによるとお盆には遺族の方がお参りに見え、周辺の掃除や手入れをしていたという。
新政府軍 佐藤安之助墓
新政府軍仮埋葬地(佐藤安之助墓の近く)
天狗岳
 天狗岳(標高530m)は、箱館戦争の激戦地のひとつとして有名である。旧江差山道はこの山につけられており、旅人の 難所のひとつであった。現在も北側中腹と裾野に旧道路が見られる。この道路は渡島と檜山の物資の交流はもちろん、人々 の交通に大きな役割を果たしていた。
 こうして交通の要路である天狗岳の山道一帯は、明治2年(1869)4月13日の箱館戦争の戦場として、土方歳三の部下 、友野栄之助等が百人の兵士を指揮し、最も冴えたゲリラ戦術を展開したところである。
天狗岳
箱館戦争史跡マップ